マキノ雅弘・等持院・足利尊氏



 東映の『昭和残侠伝』シリーズほか、任侠映画は浅草東映でだいたい観ている。本日は、『昭和残侠伝』のマキノ雅弘監督の命日(1993年10/29没)とのこと。墓地入口に銅像が建っている父マキノ(牧野)省三とともに、京都の等持院の墓に眠っている。等持院は、個人的に好きなお寺の一つである。このところ京都への旅にも出ていないので、ご無沙汰であるが、最後に参詣したのはたしか暑い季節で、京福電鉄等持院駅を下りたとき、ギンヤンマが飛翔していたことを思い出す。この寺院は周知のように足利家の菩提寺で、方丈北庭園の中央には足利尊氏の墓と伝えられる塔がある。
 http://blog.goo.ne.jp/mrslim2/e/8141b27615d8c7511c1d6695baefe32f
 (「等持院庭園は、夢窓国師作庭の三大名園の一つ。」)
 足利尊氏は逆賊としてあまり評価されては来なかったらしいが、最前線の日本歴史学ではどうなのだろうか。呉座勇一国際日本文化研究センター客員准教授編の『南朝研究の最前線』(歴史新書y・洋泉社)で、たしかめられる。

◯かつて、足利尊氏は「逆賊」と呼ばれた。逆賊とは「主君にそむいた賊徒。むほんを起こした悪人」(小学館日本国語大辞典』)であり、日本では特に、天皇に背いた者への悪罵として用いられる。
 足利尊氏が逆賊呼ばわりされるのは、彼が後醍醐天皇建武政権から離反し、これを崩壊させたからである。(細川重男『足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?』 p.84 )
◯支離滅裂である。弟(※直義)思いは美徳であろうが、どのような結果をもたらすかを深く考えずに行動し、これまた深く考えずに周囲の意見に流されている。清水克行は尊氏を「八方美人で投げ出し屋」と評しているが、まったくそのとおりである。こうなると、尊氏の離反は、尊氏自身の決断なのか、はなはだ疑わしい。(p.88 )
◯一方、西国では河内の楠木正成らが、後醍醐方として挙兵した。9月28日に笠置は陥落し、後醍醐は脱出したものの30日に捕らえられた。10月21日には正成が籠っていた河内赤坂城も落ち、正成は行方知れずとなる。
 この時、朝廷は尊氏が暇乞いをしなかったこととともに「一門にあらざる」(北条氏ではない)ことを理由に馬を下賜しなかった(『花園天皇日記』同月5日条)。足利氏は位階・官職面では北条氏有力庶家に准じられていたが、北条氏とは差別があったことがわかる。やはり足利氏を「源氏嫡流」と見るのには無理がある。(p.100 )
◯この冷遇(※多くの恩賞を与えられながらも政権から疎外されたと考えられてきた)を尊氏離反の原因と考える説もあった。だが近年の研究により、尊氏は全国武士に対する軍事指揮権を与えられ、後醍醐の「侍大将」ともいうべき地位にあったことが明らかにされた。
 後醍醐は武士たちを卑しい「戎夷(じゅうい:獣のような野蛮人。後醍醐はかつて鎌倉幕府をこの言葉で呼び、「天下管領しかるべからず」〈天下を支配するなど、とんでもない〉と言ってのけている。『花園天皇日記』正中元年11月14条)」と見なしており、後醍醐にとって尊氏は、いわば駒の一つであった。けれども、後醍醐が武士たちの中で尊氏を最も厚遇したことは確かであり、尊氏からすれば皇恩は身に余るほどであった。
 建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではないか。だが、周知のごとく後醍醐は失政を重ね、世は混乱に陥る。約3年の建武政権期(1333〜36年)に北条与党の乱を含めた反乱が25件に及ぶことは、混乱の深刻さを示して余りある(pp.102~103 )
◯鎌倉末期前後の武士たちにとって、「将軍家」は征夷大将軍を指す以前に、頼朝以来の武家政権の首長を意味していた。中先代の乱の激闘を制し鎌倉に入った尊氏の姿に、混迷を極めるこの時代の武士たちは、頼朝の再来、自分たちの頼朝を見いだした。
 足利氏の庶子に生まれた「八方美人で投げ出し屋」の尊氏は、弟直義をはじめとする足利家中の人々を含めた当時の武士たちによって、「将軍家」へと祭り上げられたのである。(p.107 )
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 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20160102/1451727866(呉座勇一『一揆の原理』を読む)