名優・彌十郎●当たり芸の北条時政
— 中村哲郎 @narazumono (@mmMZDeU2aTwrYj7) 2022年9月18日
今回の畠山合戦を観て、彌十郎の風格と演技に唸った。巧いだけではない、役が歴史の絵となり、品と哀れがある!
現代日本には、新たな一人の名優が誕生した。決して過褒ではない。今後十年が楽しみである。面白くなりそうだ。 pic.twitter.com/JlayG279Py
中世史家呉座勇一氏の『頼朝と義時ー武家政権の誕生』(講談社現代新書)によれば、北条時政が「執権」職にあったのか、文献的には疑わしいとのことである。なるほど、意外とその権力基盤は脆弱であったのか。
一般に時政は、鎌倉幕府の初代執権に就任したとされる。よく知られているように、時政以降、歴代の北条氏当主は執権に就任するが、同時代史料で時政を「執権」と表現したものはない。この時点で「執権」という幕府の役職が成立していたとは考えられない。義時ですら、執権に就任したかどうかについては議論がある。
そもそも時政の権限と、泰時(義時長男)以降の執権の権限は異なる。泰時以降の執権は、将軍を補佐する常設の役職だが、時政は幼少の実朝の権限を代行しているにすぎない。鎌倉殿の代理だから、その権限は絶大であるが、実朝が成長すれば返さなくてはならない一時的な権限である。
この時期は時政だけでなく、大江広元も政所別当であった。時政が従五位下に対し広元は正五位下であり、位階は広元の方が上であった。幕府の役職だけで見れば、時政の地位は御家人筆頭とは言えない。時政が幕政を領導できたのは、もっぱら実朝の外祖父・後見人という立場によるものだった。その地位とて、頼朝後家にして実朝生母たる政子と決定的に対立すれば、雲散霧消しかねない。時政の権力基盤は、実は不安定なものだったのである。(pp.231〜232)
歴史科学協議会の『歴史評論』、高島鈴こと杉浦鈴「多声的な歴史著述のために―フィクション・フェミニズム・日本中世史」が話題だから読んでみたがこれは酷い……酷過ぎる……裁判の正確な情報をオミットしながら実証史学の男性中心主義をdisるという、これ又呉座さんを勝手に磔にする酷過ぎる論文……
— 雁琳(がんりん) (@ganrim_) 2022年9月20日
さて北条時政(坂東彌十郎)&牧の方(宮沢りえ)が牧氏事件で失脚、退場した後、『鎌倉殿の13人』のクレジットタイトルの「トメ」は、宮沢りえから誰になるのだろうか?
第32回〜33回。ちょっと仕事が忙しく更新遅れました。山本耕史トメトップ移動、自分も含め皆さんの予想通り。これは宮沢りえ退場後の次期トメの準備でしょう。生田斗真は中トメスペースあり、特別出演レベル。あとメガネとアフロが無かったら、山寺宏一って最初気づかんなかったわ笑 pic.twitter.com/z3Zz0OLwK6
— 俳優のクレジット序列考察委員会 (@creditorder) 2022年9月2日