ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史(Sapiens)下巻』は、上巻の第3部第11章までを承けて、第12章、第13章で始まる。第12章で、人類の統一に貢献した三つの要素、貨幣と帝国と並ぶ宗教について考察している。「超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度」と、宗教を定義し、「超人間的な秩序の存在を主張する」ことと、「超人間的な秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それには拘束力があると見なす」ことの二つが基準であるとしている。さらに特性として、「いつでもどこでも正しい普遍的な超人間的秩序を信奉している必要がある」ことと、「この信念をすべての人に広めることをあくまでも求めなければならない」つまり「宣教を行なう」ことが必要であることの、二点がある。この意味での、普遍的で宣教を行なう宗教が現れ始めたのは、紀元前1000年紀のことである。
http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20150613/1434193151(「宗教とは制度である:2015年6/13 」)
一神教と多神教との比較のところで、教義レベルよりも、一般信者もしくは庶民の信仰生活の実態に即して論じているのは共感できるし面白い。
……だが、神学の理論と歴史の現実との間には、つねに隙間が存在してきた。ほとんどの人が、一神教の考え方を完全には消化し切れずにきた。彼らは世界を「私たち」と「彼ら」に区分し、宇宙の至高の神的存在は、自分たちの日常の必要とはあまりに遠く異質のものと見なし続けた。一神教は神々を表玄関から派手なファンファーレとともに追い出したが、脇の窓から再び中へ招き入れた。たとえばキリスト教は、聖人たちが居並ぶ独自の万神殿を築き上げた。こうした聖人たちのカルトは、多神教の神々のカルトと大差なかった。……( p.21 )
悪の問題をめぐるいわゆる神義論に関連しては、二元論の取り込みを指摘している。なるほど納得できる。
……それでも、上げ潮の一神教は二元論を完全に消し去ったわけではない。一神教のユダヤ教やキリスト教、イスラム教は、二元論の信仰や慣行をたっぷり吸収した。じつは私たちが「一神教」と呼ぶものの最も基本的な概念の一部は、二元論を起源とし、その精神を受け継いでいる。無数のキリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒が強力な悪の力(キリスト教徒が悪魔やサタンと呼ぶ類のもの)の存在を信じている。そうした力は、独自に振る舞い、善き神と戦い、神の許しなしに猛威を振るう。……( p.25 )
近代の人間至上主義のイデオロギー(自由主義的な人間至上主義・社会主義的な人間至上主義・進化論的な人間至上主義の三つがある)は、共有された「信念」である限り、宗教、人間性を信仰する宗教といえる、としているのは卓見である。たしかにイデオロギーは、宗教の〈胡散臭い〉ところを継承しているかもしれない。朝「反政府・反原発」イデオロギーの東京新聞なんぞを開くと、どこかの宗教団体の機関紙を読まされる念いである。
第13章では、歴史には「選ばれなかったさまざまな選択肢」が存在したことを忘れて、すべて決定論的に説明する学説もあるが、「後知恵の誤謬」にほかならないとしている。また過去になされた歴史上の選択は、「人類の利益のために」なされたわけではないということ、「キリスト教のほうがマニ教よりも優れた選択肢だったとか、アラブ帝国のほうがササン朝ペルシア帝国よりも有益だったという証拠もない」のである。ギリシア神話の歴史を司る女神クレイオは、盲目であったことになる。