源実朝の孤独:吉本隆明『源実朝』(日本詩人選12 筑摩書房)より

  吉本隆明源実朝』のⅦ「実朝における古歌」では、「別に実朝の歌は、力強いから『万葉』調のなのでもなく、『万葉』を模倣したから『万葉』詩人なのでもない。実朝のある種の秀歌が〈和歌〉形式の古形を保存しているから『万葉』の影響があるというべきなのだ」とし、実朝を高く評価した(賀茂)真淵の万葉観に類似している実朝の作品7首と、本歌としたかどうかは立証できないがそれぞれに類似した『万葉』の歌を並列し比較している。最初の1首は、百人一首でお馴染みの
 世の中はつねにもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも (実朝)

 世の中の常かくのみと念(おも)へども 半手(はたた)忘れずなほ恋ひにけり (『万葉集』)❉半手、吉本本では「かたて」とルビを振っているが、「はたた」のようだ。

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 さて知られた「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ」の4首目を経て、最後の7首目で、
くれなゐの千入(ちしほ)のまふり山の端に 日の入るときの空にぞありける (実朝)ちしほのまふり 「ちしほ」は繰り返し染料に漬けて色を染めること、「まふり」は「まふりで(まふりいで)」に同じで、色を水に振り出して染めること。
くれなゐの濃染(こぞめ)のころも色深く 染みにしかばか忘れかねつる (『万葉集』)

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 吉本は、実朝のこれらの秀歌がたとえ本歌をとったとしても〈心〉をとったのであり「言葉尻を模倣するという段階からは、はるかに深くつきすすんでいる」としている。 

 ことに引用の最後の実朝の歌は、本歌とくらべて特色がはっきり出ていて、しかもみくらべて劣るところはない。山の端に入りかける真赤な夕日をみて、古代のくれない染めの、染粉をふりかけたようだな、とおもった、とそれだけのことであるが、「日の入るときの空にぞありける」という表現は、ただ〈そういう空だな〉といっているだけで、しかも無限に浸みこんでゆく〈心〉を写しとっている。この〈心〉は、けっして〈忘れかねつる〉という『万葉』の恋歌の恋しさの単純さとは似ていない。〈事実〉を叙景しているだけの実朝の歌のほうが、複雑なこころの動きを〈事実〉として採りだしている孤独な心が、浸みとおっているようにみえる。これが実朝のおかれた環境であったといえばいえるのである。(p.169)