チェーホフ『プラトーノフ』観劇


 
 1/31(金)は、東京両国のシアターX(カイ)で、劇団キンダーベース公演、原田一樹構成・脚本・演出のチェーホフ原作『プラトーノフ』を観劇。周知のように、この原作戯曲は、チェーホフ死後20年近くたって(1923年)発見されたチェーホフの処女戯曲である。adaptationを試みた中村雄二郎氏の台本(「Libro刊『プラトーノフ』考」所収)では、3幕の作品となっている。今回の原田一樹脚本は、2幕の劇として構成している。舞台は、19世紀末ロシアの地方の旧名家ヴォイニーツェフ家の庭である。同じ原作を映画化した、ニキータ・ミハルコフ監督の『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』では場所の移動がある。そこが演劇との異なるところで、舞台では俳優の台詞と鉄砲や花火などの音が観客の想像を誘発して、空間の広がりを現前させるわけである。


 題名にあるように、かつては文学への熱い志をもっていた小学校教師プラトーノフが主人公で、自殺未遂のあと、既婚者となった学生時代の恋人ソフィア・エゴーロヴナによって射殺されるまでの物語が主軸。しかし、中村雄二郎氏が前掲書で指摘していることに従うならば、チェーホフ劇においては、他と対峙する自我的なヒーローは不在で、登場するのは、コロス的人間つまり関係のなかの人間であって、互いの会話と行動の交錯を通して、それぞれの人生と悲哀が浮き彫りになってくる構造なのである。会話と行動の主体であるはずの登場人物たちが、おのおのその脈絡と意味をわかっているわけではなく、こころの表層と深層の連関がみずからにとって曖昧なのである。表面的には成立している会話はチグハグであり、行動の連鎖はスムーズではない。この情けなさにこそ、現代的魅力があるのだろう。派手な展開はないのに、2時間20分の上演時間は長くはなかった。
中村:もっとも、チェーホフの登場人物たちが、セルフ的だとかコロス的だとかいっても、そうした人物たちは必ずしもただ集団のなかに埋没しているのではないんです。チェーホフの描く人物たちが、われわれに対して、たいへん親しみやすく、また多くのことを訴えかけてくるのは、彼らがただ集団のなかに埋没しているのじゃなくて、自分の心のうちにセルフとエゴ、下意識と意識の弁証法を含んでいるからなのです。十九世紀の末にロシアにも近代化の波が押しよせてきて、ロシア独特の余計者だとかインテリゲンチャだとかを生み出すわけですね。
 そういうなかで、意識と無意識(下意識)との間になんとか橋を架けなければならない。たとえばチェーホフの『手帖』のなかにある有名なことばに《われわれの自尊心や自負心はヨーロッパだ。しかし発達程度や行動はアジア的だ》というのがある。自分の中にある西洋と非西洋が、絶えず問題になっていると思うんです。……(前掲書pp.166~167)
 
 この劇を7年ぶりに再演した、演出の原田一樹氏は、書いている。
……だが、今、稽古を重ねていて、本当に演劇というものの分からなさを痛感している。そういった熱よりも、遥かにチェーホフ的な観点、つまり『スカッとしない感覚」が、私たちを占めているのである。だが、七年前には戻れない。人が集まるだけの「プラトーノフ」でも、ラストは主人公の死で終わる。彼は何故死ななければならなかったのか? それを考えることが、この作品が「未完」とされる、その次を引き継ぐことになるかもしれないという気はしている。……(同公演パンフレット)
 この演出では、喜劇性や祝祭性は強調されていない。シンプルな構成になっている。好感がもてた。映画の『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』では、「プラトーノフは気だてのやさしい妻サーシャが止めるのも聞かず、館を抜け出してあげくのはてに川に身を投げ、自殺をはかるが、川は浅くて死ぬことなどできない」という喜劇的場面が印象的ではあった。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100617/1276763302(「チェーホフ劇はどこで笑うのか?」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100617/1276763302(「原田一樹演出・イプセン『ロスメルスホルム』観劇」)