飯沢匤と喜劇について

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 高橋克典、黒柳徹子の“運命の人”に…『トットちゃん!』で故・飯沢匡さん役「とても光栄です」|TVLIFE web - テレビがもっと楽しくなる!
 本日放送の『トットちゃん!』には、高橋克典演じる飯沢匤は登場していなかった。ヒロインを演じている清野菜名は、澄んだ瞳が印象的で好感がもてる。


 さて劇作家・演出家の飯沢匤の舞台は、昔一度だけ観ている。1965年1月第一生命ホールにて、文学座公演、飯沢匤作・演出の『無害な毒薬』。展開・内容などすっかり忘れてしまっているが、公演パンフレットのいまは亡き、飯沢匤、花田清輝、遠藤慎吾三氏による、喜劇をめぐる鼎談記事が面白い。たたかう気持―物質的豊穣さのサブタイトルのところで、花田清輝は、「……ほんとうの意味で新劇の人はたたかう気持が足りないのですね。たとえばボーマルシェなんて、宮廷の中でやってみるという精神が足りないと思う。そっぽを向いて小さなところで固まってしまう。それもありますね」と発言。
遠藤:しかし、新劇だって小山内さんなどが始めたときは歌舞伎と対抗する気持で、歌舞伎をやっつけて演劇にのし上がるつもりだったのですね、読んでみると。
飯沢:書いてはいるけれども、それはどうかな。
花田:芸術的にはあまりたたかわない。
飯沢:だって、土方さんの家のポケットマネーでやっていて続くはずがないじゃないですか。ぼくは書いていることはあまり信用しないです。声明書のようなものは。(笑い)文学座のいろいろな声明も信用しない。ぼくは彼らがどういうお弁当を食べているか調べる。昼になって出前の注文をとる。そのとり方を見ていたら、新劇の状況は大体わかるナ。(笑い) このごろは文学座の人たちのお弁当も大したものですよ。
花田:やはり資本主義社会では金まわりの少ないところはまずいですね。ぼくはべつにブルジョワ的ではないですけれども……。
飯沢:事実としてですね。
花田:新劇それから詩人の世界、これはなんか狭いような気がします。
遠藤:こういうセンスを育てる環境がないという……?
花田:ええ。
遠藤:しかし、そういう物質的、つまり芳醇さがないと育たないですかね。
花田プロレタリア文学運動とか演劇運動もそうですが、なんかブルジョワ唯物論の基礎がちょっと足りないですね、ものの見方の上で。お弁当がよくなったらけっこうなことですよ。
 ここで「こういうセンス」とされているのは、例えばチェーホフの作品に初期作品から一貫して根本に流れているナンセンスの面白さ、つまりでたらめの面白さを鑑賞できるセンスで、「広い社会常識」も含まれていて、「自由なのびやかな心」が根底にあるということ。喜劇(精神)が生まれるには、歴史的な良し悪しを別にして、貴族社会的な支えも必要だったのかもしれないと、飯沢匤は述べている。
遠藤:どうですか、花田さん、飯沢さんの喜劇について?
花田:ずうっと前にお書きになったラジオドラマとか「塔」を見ております。それで、あれなんですけれども、それこそ非常に広いセンスをおもちで、そういうものが一番感じられるわけです。とても見ていて楽しいんですが。
飯沢:ぼく「崑崙山の人々」では遠藤さんに書かされたんですが、やはり大いにナンセンスの味をねらったんですよ。あれは見て下さいませんでしたか。
花田:ええ、ぼくは見ておりません。しかし一般的にいって、いまのところは日本の芝居の中にばかくさいという感じをもたないで見れるものは非常に少ない気がするのです。
遠藤:どうしてでしょうね。
花田:やはりそれは飯沢さんのような芸術的なコモンセンスがないからでしょう。(笑い) ヒラヒラだけでできているような感じがしますね。
遠藤:やはり喜劇というのは非常に自由な心で社会批判というのですか、それもイズムとかイデオロギーとかにとらわれないで平凡に考えて、自分が気に入らないことがあったらどんどん発言してやろうという精神がないと、喜劇というのは生まれてこないんじゃないかという気がするのですよ。それで社会的良心派から出まして喜劇を書いていらっしゃる作家として非常に期待をしているわけなんです。

 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100617/1276763302(「チェーホフ劇はどこで笑うのか?:2010年6/17 」)