階段に手摺を設置

 お願いしていた大工さんが来て、わが家の階段に手摺を設えてくれた。なかなかみごとなできばえで満足している。この作業の準備のため、下の2段の広いスペースを埋めていた本とDVDの山を片付けたので、いまはすっきりしている。手摺を汚さないよう、軽く触る程度で階段の上り下りをしている。

 環境のささやかな変化を契機に、(万馬券は的中していないのに)入手後祭り上げていた、J.G.A.ポーコックの大著『マキァヴェリアン・モーメント(The Machiavellian Moment)』(名古屋大学出版会:田中秀夫ほか訳)を読み始めた。「フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統」との副題が付いている。訳者の一人田中秀夫京都大学教授が、「徳と政体、国家の関連をめぐる著作として、近代ヨーロッパ思想に関する最高傑作である」と評している。読み終えるのに来年一杯かかりそうである。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20130926/1380172885(「思想史の方法」)


 第1章「問題とその様式(A)」の(Ⅰ)、たしかに難解な始まりではあるが、歴史をめぐる考察のところは面白い。
……「歴史」によってわたしたちは通常、時間のなかで起こる、個人的で主観的な性格の出来事ではなく、社会的で公共的な性格の出来事の連続を意味する。その連続をわたしたちは、まず物語に、次には過程に組織しようとする。しかし、これはスコラ的知識人が大いに評価した目的だったわけではない。詩が哲学より劣っているように、話を物語るだけの物語は、詩より劣っていると考える点で、スコラ的知識人はアリストテレスに従っていた。なぜなら、物語は出来事の普遍的な意義を明らかにする点で劣っていたからである。その意義が最もよく理解されるのは、個々の出来事をすべて断念し、それを超えて普遍的なカテゴリー[範疇]の思索へと上昇する思考によってであった。過程とその次元としての時間について、アリストテレス主義的知識人が選び出した変化の過程は、それによってある事物が存在するようになり、その次に存在しなくなる過程であった。すなわち〈自然〉physisであり、それはそれによってある事物が自らの目的を達成し、その形態を完成し、その潜在的可能性を実現し、そしてその後に終焉する—そのすべては、生成して消滅するという思想の拡張である—過程であった。……(同書p.4)