半世紀ぶりの『長い墓標の列』観劇

 
 昨日3/10(月)は、東京新国立劇場小劇場にて、福田善之作、宮田慶子演出の『長い墓標の列』を観劇した。50年前の1963年7月俳優座劇場で観世栄夫演出、青年芸術劇場公演の同舞台を観ているので、まさに半世紀ぶりといえる。高校を卒業してすぐの夏ということになる。まだ「マルクス主義」や「生産力理論」などの社会科学・思想用語がごく自然に、かつ言霊的威力をもって流布していた時代の演劇であった。芝居というより、かつての「新劇」という呼称がふさわしい。木下順二、宮本研などの作品とともに、重厚な雰囲気が漂っていた。新国立劇場での上演を悦びたい。


 河合栄治郎東京帝国大学経済学部教授をモデルとした山名庄策(村田雄浩)は、あくまでも学問研究の自由と大学の自治固執し、大河内一男などの「生産力理論」者をモデルとした弟子の城崎啓(古川耕史)は、師と一緒に大学を去る決心を翻し、たとえどのような破滅が待っていようとも、メカニズムの必然的展開におのれを委ね、学問研究に携われる場を確保しようとして対立する。全4幕の構成で、第3幕の山名邸書斎でのこの二人の論戦がこの演劇のクライマックスであろう。徹底的に理想に生きるのか、現実との折り合いを見出そうとするのか、白熱の討論。引き込まれる。吉本隆明氏の『丸山眞男論』を通過しているいま、国立大学教授の職で「よく食いますな」と言われる生活を維持している、山名の観念的理想論は敬服しつつも肯定できまい。しかし、社会学者の宮台真司氏風の城崎にも、危うさを感じてしまう。
 台詞で際立ったのが、山名の娘弘子(熊坂理恵子)の第2幕での「のっぺらぼうの」夢の話である。何となく挿入されているようで、この演劇に奥行きを与えている。時代の〈現実〉とされているものも、後から振り返れば「のっぺらぼうの」夢とされるかもしれない。生きることの誠実さとは何か、判断停止を迫られる。演劇としての作品のつくりについては、演出家の竹内敏晴氏が、青芸公演パンフレットに書いている。
……改稿当時、福田がいかに木下さんのドラマ論や、マクベス観に惹かれていたかをあらためて思いおこしたが、未完成であるとはいえ、この作品に見られるのは明確な〈ドラマ〉への志向であると同時に、そのスタイルは古典的な均整ではなく、より流動的であり、いわばシェイクスピア的である。……(p.16)
 http://james.3zoku.com/shakespeare/macbeth/index.html(「Macbeth Contents」)

 原作戯曲にあたってまとめたいのだが、わが書斎の『現代日本戯曲大系』(三一書房)中、この作品収録の第4巻の函の中身だけがどこかに消えていて、半日探索するも発見できず、あきらめた次第。
(劇中「山名邸書斎」で流された「旅の夜風」は、この時代=1938~9年の映画『愛染かつら』の主題曲として大ヒット。)
 福田善之作品では、ほかに『オッペケペ』(1963年11月、新人会公演、俳優座劇場)、『袴垂れはどこだ』(1964年5月、青芸公演、俳優座劇場)を観ている。


 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20101224/1293165294(宮本研『美しきものの伝説』)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の椿。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆