動く鯰絵


(直筆サイン入生写真) 
 安政二年の安政江戸地震の直後、鯰絵が流行したそうである。絵師の河鍋暁斎は「酒のみ打ち飲みて其の年を暮らしたり」というほど、鯰絵でしこたま儲けたとのこと。地震の前年ペリーの黒船が品川沖に現われ、「大きな変革への期待と不安」という幕末期の時代風潮を背景にして、鯰絵の流行があったのだと、気谷誠氏は推測している(『芸術新潮』1995年5月号所収「地震を洒落のめせ鯰絵サイコセラピー説」)。
 さて昨日(5/25)は、東京神楽坂die pratzeで、métro公演、天願大介作・演出の『なまず』を観劇。métroは、出口結美子が「寿退職」で、月船さらら一人の演劇ユニットとなっている。鴇巣(ときのす)直樹は毎回客演している。細身で特異な風貌、個人的には何となくこれがmétro公演のイメージとなっている。

 舞台は、宝塚と昭和アングラ演劇の融合のようなつくりだ。東北の大震災後の日本を扱っているが、荒唐無稽な展開でとくに一貫した物語構成にはなっていない。映画『世界で一番美しい夜』以来の、天願大介の、反文明主義・生命主義があり、反資本主義と反原発さらに廃墟願望まで加わった印象である。精神病院の患者たちが脱出して、東北の地で反東京のコミューンごっこを、ニューギニアなまず王子の呪的力によって演じるあたりの舞台は、それこそ「地震を洒落のめせ」との鯰絵の〈世界観〉であろう。野口悠紀雄氏は、『風の谷のナウシカ』を解読しながら、終末論と廃墟憧憬の違いについて述べている。
……終末論とは、前者(※破滅の予言または兆候)を指す。つまり、世界の終焉が未来に訪れることの予言である。これは、佛教の末法思想として、日本人にも昔から馴染みが深いものだ。キリスト教的な終末論の場合には、最後の審判に備えるべしとの警告も含まれる。
 これに対して、廃墟は、終末のあとに残されたものである。『ナウシカ』の場合、最終戦争はすでに起こってしまった。(千年も前に!)すでに訪れてしまった破局に対して、なすすべは何もない。残されたのは、永遠に失われたものに対する憧憬だけである。日本人に馴染みが薄いのは、この感覚だ。……(『「超」整理日誌』新潮文庫
 野口氏は、しかしバブル崩壊阪神淡路大震災後、日本人にも「廃墟の感覚というべきもの」が醸成されつつあることを指摘している。
 ともあれ月船さららの存在感こそmétroの魅力である。赤城神社の傍の道でオタオタして(整理券NO.7にもかかわらず)開場に遅れ、奥の方に案内されそうになったが、「こちら閉所恐怖症なもので…」というと、左最前列のベンチ席に誘導された。尻が痛くなりそうなので、持参のベストを下に敷いて観劇。観客はなまずでないぞ。舞台後半月船さららが後方からすぐ脇を通って舞台に登場したときはドキリとした。微かな香水の香りが漂った。この瞬間だけで満足。
 精神病院を舞台にした映画の系譜にも連なる舞台ではあった。なお芝居小屋神楽坂die pratzeはこの公演をもって閉館となるそうである。劇場自体が、すでに廃墟なのであった。
ピーター・ブルック監督『マーラー/サド』)
ミロス・フォアマン監督『カッコーの巣の上で』)
ヴェルナー・シュレーター監督『愚か者の日』)
なまず.pdf 直(短篇小説「なまず」『十一の短篇』菁柿堂所収)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家に咲くアルストロエメリア(アルストロメリア:Alstroemeria)の花。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆