文字通りの小劇場

   この記事を読んで、かつて観劇した文字通りの小劇場を二つ思い浮かべたことである。一つは、大昔1966年11月、演劇集団・変身公演、アルフレッド・ジャリ作、竹内健訳、竹内敏晴演出の『ユビュ王』を観た、代々木小劇場。たしか大阪弁の台詞で進行して、当時は度肝を抜かれた遠い記憶がある。このときユビュ親父を演じた役者が、後にひとり芝居の出前芝居『土佐源氏』でブレイクする坂本長利である。会場の代々木小劇場は、舞台の間口5.4M(3間)、奥行4.5M(2間半)、客席60の文字通りの小劇場。現JR代々木駅から明治神宮寄りに徒歩3分、閑静な住宅街のスタジオを手作りで改造したもの。

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 もう一つは、2010年5/25に観劇した、(当時)月船さらら出口結美子の演劇ユニット「métro」の公演、谷崎潤一郎原作、天願大介演出の『痴人の愛—IDIOTS—』の会場、神楽坂・相生坂下にあった民家を改造した小劇場。こちらは、部屋の最後列で、押入れの跡のような段に坐って観たのであった。その折のHP観劇記は以下の通りで、再録したい。



◆昨日25日(火)は、月船さらら出口結美子の演劇ユニット「métro」の公演、谷崎潤一郎原作、天願大介演出の『痴人の愛—IDIOTS—』を観劇した.千秋楽のマチネーで、今回は、人形劇での声のみで、プロデュース役に徹している出口結美子さんが、「最後の公演でーす.よろしかったらどうぞ」と、通行人に声をかけていた.場所は、東京神楽坂の相生坂を下ったすぐのところのミニ劇場、die pratze。知らない人は、とても劇場とは思うまい.少し大きい住宅といった建物、そこが今回の場所.開演直前満員.こちらが坐ったのは、天井に頭がぶつかりそうな最上段の端の席.足許の場所にスタッフの若い女性が坐ったため、脚の自由が制限されじつに疲れた観劇だった.
 ナオミが月船さらら、原作で一人称語り手の河合譲二が池下重大、スタッフの一員のような登場人物(人形劇担当)の痩せた男が、鴇巣(ときのす)直樹というcasting。
 ナオミ—譲二の関係を、加虐—被虐、騙すこと—騙されること、からかうこと—からかわれること、つまり悪女—お人好しの一方的関係としてではなく、愛におけるIDIOT(痴人)—IDIOTの関係を描こうとした演出である.ナオミは、むろん悪女の側面をもちながらも、譲二のみならず観客にも愛される女でなければならない.月船さららは好演であった.宝塚で鍛えたしなやかな肢体(原作では「肉體」でなければならないが)と動き(ダンスシーンはある)に魅了され、譲二(および想像のなかの男たち)の視線に晒されて発せられるオーラのようなものが十分に感じられた.
 愛の醸成には時間の経過が重要な意味をもつ.天願演出では、挿入される紙芝居風人形劇で浅草のカフェでのナオミとの出会いから、横浜の洋館での再出発への原作通りの経過を描き、舞台の劇であるときの出来事を遡って描いている.映画監督らしいショットの重ね方であろうが、愛(情事)をめぐって時間の経過を逆に辿る演劇といえば、ハロルド・ピンターの『BETRAYAL(背信)』を思わせる舞台の構造であって、 違和感は感じなかった。
 最後も原作の最後の文章を台詞としながら終わらなかった.
此れで私たち夫婦の記録は終りとします.此れを讀んで、馬鹿々々しいと思ふ人は笑って下さい.教訓になると思ふ人は、いゝ見せしめにして下さい.私自身は、ナオミに惚れてゐるのですから、どう思はれても仕方がありません.
ナオミは今年で二十三で私は三十六になります.(中公版『谷崎潤一郎全集第10巻』)
 この後、まだカフェの女給だったころのナオミが、待ち合わせで長いこと待たされても不平も言わず待っていてくれたところを再構成して幕とした.爛熟した愛の核になるところに、このような美しい出会いがあることを暗示した、すてきな場面だ.
或る時などはベンチに待ってゐる約束だったのが、急に雨が降り出したので、どうしてゐるかと思ひながら出かけて行くと、あの、池の側にある何様だかの小さい祠の軒下にしゃがんで、それでもちゃんと待ってゐたのには、ひどくいぢらしい氣がしたことがありました.(中公版『谷崎潤一郎全集第10巻』)……2010年5/26記