理系と文系

 古典および権威ある学説に触れてたえず勉強していなければ、文系でさえないだろう。 物理学者の早野龍五東大教授が感心したようであるから、(本来文系の)松岡正剛さんも大した知性の持ち主といわざるを得ない。
 http://nucl.phys.s.u-tokyo.ac.jp/hayano/jp/(「早野龍五HP」)
 http://1000ya.isis.ne.jp/1506.html(「松岡正剛千夜千冊『浅井祥仁:ヒッグス粒子の謎』」)
 むろん博識の松岡正剛さんも、細部においてはけっこうポカはあるのだろう。かつてわがHPに記載したreviewを再録しておきたい。
松岡正剛氏の『17歳のための世界と日本の見方』(春秋社)帝塚山学院大学での「人間と文化」の講義をもとにした、世界の意識と文化の歴史とのかかわりにおいて、日本の意識と文化の歴史を解説している。語りも巧みで、教えられるところが多かった。
 人間の脳には、残忍な「ワニの脳」、狡猾な「ネズミの脳」を残したまま理性的な「ヒトの脳」がつくられてきたとの脳科学者の説明を紹介して、
……なぜこんなことになったのかというと、おそらくヒトザルからヒトになったときに、急ぎすぎたんだと思うんですね。これはあくまで仮説ですが、何か急激な環境変化がおこって、進化を急ぐ必要に迫られていたのだと思います。たとえば草原がなくなるとか、強力な外敵があらわれたといったようなことがあった。環境温度も激変したのでしょう。そこでヒトは急いで立ち上がってしまい、その結果、発情期を失い、未熟児を生んで育児期間を長くし、しかも三つの脳を矛盾したまま持ち続けることになってしまったんでしょう。
 しかし一方で、ヒトが理性の脳によって、本能のままにふるまおうとするワニやネズミの脳をコントロールしようとしたところから、人間の文化の歴史ははじまります。たとえば、ヒトが何とか理性の脳を維持しようとするところから、宗教が誕生してきます。……
 宗教が現代のあらゆる物語の母型となる物語(文化のフォーマット)を伴って誕生して、各地域・文化圏ごとに展開してくる具体的な経過を解説する本論はスリリングで面白いが、この三つの脳についての叙述がいちばん印象に残った。「編集工学研究所長」の肩書きをもつ著者は、文化とはつまりは活動としては、「情報の編集」ということであり、その編集の仕方の違いが文化の違いとなるとしている。
……いいですか、私は宗教も国のしくみも、建築をつくることも哲学をすることも、すべて「編集」であると考えているのです。関係をどう編集するかということが、国にも宗教にも、建築にも音楽にも、たいていの仕事にも必要なんですね。
 人間文化を見ていくためには、何と何が組み合わさってそうなったのか、どこが強調されてそのような形式になったのか、どのような場面やキャラクターが加わったのかといったこと、すなわち、どのような「編集」があったのかということを見るべきだと思っているからです。……
 著者の「編集」は、レヴィ・ストロースの神話的思考における「器用仕事=ブリコラージュ」の意味も含まれる、より意味範囲の広いことばであるようだ。著者が、神話の「再編集」「繕い」としている、ブリコラージュとは、レヴィ・ストロースの『野生の思考(大橋保夫訳・みすず書房)』では次のように説明されている。
……ところで、神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるといってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手もとには他に何もないのだから、したがって神話的思考とは、いわば一種の知的な器用仕事である。……
 このような「情報編集史観」で、比較文化史・世界文化史の俯瞰図を描いている。みごとである。しかしあまり「編集」に固執すると、偶然的な事態であったかもしれないことまで、関係の再構築といういわば必然的な展開とされてしまうあやうさもあるのではないか。
 たとえば、ミケランジェロのモ−セ像のモーセの頭には角が生えている。これは、ヘルメス思想の影響を受けたキリスト教の教父らの、新しいキリスト教への変容を暗示していると説いている。「モーセプラトン=ヘルメス神」のイメージがあるのだそうだ。これは、たんなる『ラテン語旧約聖書ウルガータ)』の誤訳、あるいは「光り輝くもの」と「角」の多義性をもったヘブライ語ラテン語に移すときの手違いに、ミケランジェロが従っただけという(従来の)理解でもかまわないのではないか。
 驚くほど無知な聴き手の大学生らに、セイゴー先生も慣れてしまっているようだが、「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の「四法印」のことを、「四諦といいます」と述べていても、セイゴ−先生の間違いに気づく学生が一人もいないというのも困ったものである。……(2007年8/13記)
 理系の学者による倫理学の本も出ている。東大大学院工学系&医学系教授の鄭(てい)雄一氏の『東大理系教授が考える道徳のメカニズム』(ベスト新書)で、この4月に初版が刊行されたばかり、まだ読了していない。鄭雄一氏は、東大医学部→東大大学院医学系→ハーバード大学医学部教員などを経て現職にある。わがブログで著書で学んだことを取り上げたことがある。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20111113/1321178171(「骨について」)
 こちらとは学識&経歴天地の差がある鄭雄一氏だが、高校の後輩にあたるという偶然の関係で、Facebook同窓会を通じていささかの応答あり、またこのブログも訪問していただいている。 
 鄭雄一氏はこの本で、過去の道徳思想を東西にわたって検討し、「道徳は個人個人が決めるもの」と「人間には理想の道徳がある」との二つの考え方のパターンがあるとする。それぞれの固有の思想史的文脈は保留されている。そしてこの二つの考え方は部分的正しさしかもっていないと論じている。ニコマコスならぬ氏の聡明な双子の子息らに説き聞かせる形式で議論を展開している。
……二つの代表的な考えは、長い歴史を持っているわけですので、全く根拠のない空論ではないでしょう。むしろ、二つの考え方は、一部正しい点を含んでいるのでしょう。
 でも、最終的には、「戦争や死刑で人を殺すことについては、善悪の区別がうまく説明できない」という問題を解決できなかったのは、どうしてでしょうか。
 理系のお父さんは、それは二つの考え方が、それぞれ道徳の本当の姿の一つの側面だけを取り出して示したものだから、と考えます。
 たとえば、円柱は上から見れば円ですが、横から見れば長方形ですね。上からだけ見ていれば、円だと思うし、横からだけ見ていれば、長方形だと思います。でも、どちらも本当の姿を捉えていません。本当の姿は、あくまでも円柱なのです。
 これと同じように、道徳の本当の姿は立体のようなもので、人間全体に共通で「変化しない」側面と、共通でない「変化する」側面からなっている、と考えるのはどうでしょう。……(同書p.74)
 なるほど理系的解明である。しかもこのページには図解まで載っている。本の内容の差別化が意識されていることは明瞭である。ある程度売れるのではあるまいか。