教育政策について学ぶ

 
 岩木秀夫日本女子大学教授の『ゆとり教育から個性浪費社会へ』(ちくま新書)は、「教育問題には、究極的に自分がどのような価値を前提にしているのかが明らかでないと、視野が定まらない特徴がある」とのまっとうな認識をもった教育社会学者の論考である。欧米先進諸国より遅れて近代化せねばならなかった日本は、明治期から国家主導の中央集権主義的教育政策を展開し、国民を総動員で競争に巻き込む体制をつくった。それは、社会全体が潤えば、分け前はいずれ環流してくるという経済社会の環境が支えたのであった。ところが、経済活動がグローバル化し、金融・財務・経営・市場調査・広告などのシンボリック・アナリストが、「勝ち組」として、国家を越えたネットワークのなかで活動し、彼らは、「教育の機会均等」に必要なコストを払うことや、所得の再分配に何のモティベーションももたない。国家を枠組みとしたナショナル・メリットクラシーから、グローバル・メリットクラシー(国際能力主義)の教育社会ヘ移行しつつあるのだ。「勝ち組」から外れた多くの一般大衆は、「自分にたまたま与えられた生物的・生理的・心理的個性(イディオシンクラシー)を武器にして、そのときそのときに最大限の欲求充足を追求する即時充足的な生活に追い込まれ、空間的にも時間的にもソフトな行動のまとまり(解離的人格)を形成します」。1984〜87年の「臨教審」のゆとり路線の採用は、「新学力観」から「生きる力の重視」を経て今日の、「意欲や問題解決能力重視」にまで継承され、「学力の低下」をもたらしたとの批判にさらされているところである。この「ゆとり」路線こそ、ポスト近代=成熟社会論を前提にした、「イディオシンクラシー」社会に合致した教育政策であったのである。

……アメリカの教育政策はクリントン政権になって、グローバルな企業活動を中心になって支えるシンボリック・アナリストにターゲットをしぼり、彼らの仕事のために必要な、問題発見・問題解決・戦略媒介的なスキルに照準を合わせたものになっていきました。それはブレア政権についても同じです。しかし、日本の「21世紀教育新生プラン」は〈新産業の創出〉よりは〈雇用・労働の柔軟化〉にピントが合わされていました。経済のグローバル化で求められる新しいタイプの知識・技術・技能よりは、働き方・生き方のこころがまえづくりにピントが合わされたのです。……
 つまりかんたんに図式化すれば、アメリカ、イギリスの教育政策はグローバル・メリットクラシーに重心を移し、日本の教育政策はポスト産業社会のイディオシンクラシーに重心をもったといえるだろう。しかし、ひところ宮台真司氏などポストモダンの学者が称揚した解離的人格は、サービス産業の供給者と消費者としては合理的であるとしても、社会全体の不安定要因となるだろう。そこで学校カウンセラーの配置と「国旗・国歌」の押し付けが現われてきたわけである。
……こころの時代とは、この行動のまとまりのつくり方を、労働と消費の両面からソフト化し、資本主義のフロンティアの垂直的深化をいっそうすすめる一方で、そこからくるリバウンドをセラピーとナショナリズムで管理する時代ということです。……

ゆとり教育から個性浪費社会へ

ゆとり教育から個性浪費社会へ

⦅写真(解像度20%)は、いずれも東京台東区下町民家のサザンカ山茶花)の花。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆