廃墟のマリア—2009年「重力/Note」公演観劇記

 12/18(金)は、東京北区豊島「シアター・バビロンの流れのほとりにて」に出向き、田中千禾夫原作、鹿島将介構成・演出の「重力/Note」公演『マリアの首』を観劇。劇場は、観客70人ほど収容の狭いスペース。しかし何かを生み出さんとのたしかな想いを感じさせる雰囲気である。
 http://www.jyuuryoku-note.com/(「重力/Note」)
『マリアの首』は、かつて劇団「新人会」公演(演出・田中千禾夫)を観ているし、そのときは忍役の渡辺美佐子が印象的であった。また事前に戯曲作品(三一書房版『現代日本戯曲大系4』所収)も読みなおした。鹿島演出は、それぞれの人物たちのモノローグ化した台詞(の交錯)劇として構成、動きは現実の肉体性を喪い、声は自明に対応しているはずの感情の裏打ちを欠いている。もともとがサルトル風の観念的ことばと、長崎弁との奇妙な混在で展開している戯曲であるが、忍への娼婦たちのリンチ場面などの「毛皮族」的(?)リアリズムを省略した以外は、そのままである(たとえば戯曲の、凧を旗という長崎弁など変えていない)。
 忍、鹿、静の3人の女をマリアの側面としてみる見方もあるだろうが、カトリック作家遠藤周作が、「乳の張って困っとる」マリアはただの「おふくろ」であり、「原爆におうて顔はケロイドになった」マリアこそ、ピエタのマリアではなかったか、鹿や忍が求めたマリアではなかったか、と作品中の不均衡を指摘していた。鹿島演出のこの舞台においてもそのあるべき統一されたマリア像が伝わってこない。
 もっとも「廃墟に対する望郷、それが私の奥底にある」と述べるこの演出家にとって、舞台上の被災地としての長崎は、「死の陰の谷」でも「涙の谷」でもない。あくまでも廃墟としての街であって、だからこそ原作者の田中千禾夫が演劇表現とは《祈り》であるとしたことに、「トンデモナイ」と異議を申し立てたのである。最終的には個人的感想になるが、その実験的試みに意表を突かれつつも、「転形劇場」の舞台をついに観ることなかったこちらとしては、残念ながら退屈な舞台ではあった。(2009年12/20記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区カトリック浅草教会の庭に咲くマーガレットコスモス(ガモレピス=Gamolepis)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆