つっぱり老人蜷川幸雄


 祝日の11/3(木)、東京荒川区西日暮里の開成学園・中学校講堂で催された「同窓会創立80周年記念講演会」に出席、講師蜷川幸雄氏の講演を聴講して来た。前数列が高校生であとは抽選で選ばれた父母と、同窓生らで、会場は補助席が設置されるほどの盛況であった。講演会の趣旨は、蜷川幸雄氏の昨年の文化勲章受章を祝う意味もあるとのこと。氏はすでに、1992年に英国エジンバラ大学名誉博士号、2002年に英国名誉大英勲章第三位、2001年に米国ケネディ・センター国際委員会藝術部門ゴールド・メダル賞など受章し、国際的にも高い評価を得ている演出家である。個人的には数えてみれば、これまで20回以上その舞台を拝見している。
 氏の話では、高校1年のときに「原級留置」となり、中学・高校を7年かけて卒業したとのことである。この決定的いや必然的落第こそ、演出家蜷川幸雄の原点であることが納得できる話であった。氏の人生の姿勢はエセ権威主義に対する異議申し立てというより、フテクサレでありつっぱりである。その一貫している方針は「面白い芝居でなければならない」ということと、「人生と世界の闇を捉える」ということである。学校的なるもの、NHK的なるもの、吉永小百合的(?)なるものへの嫌悪・反発が、姿勢の基底にある。しかしかつての落第生で、いまなお〈落第生〉であろうと〈志す〉演出家が、いまや文化勲章受章者となってしまった逆説をどう引き受けるのか、今後も注目したい。
 この演出家のスペクタクルで祝祭的な演劇のルーツを、2年(1年?)先輩の秀才、テレビ演出家の鴨下信一氏は、〈開成時代〉にあるのではないかと、同窓会誌(2011年6月号)で述べている。
……ニナガワ芝居には必ず俳優が舞台に(時に客席)を(ねり歩く)箇所があって、これが歌舞伎の花道上の所作、あるいはダンマリのような土俗的な祝典性をよく表わしているように思う。しかしもしかすると、ひょっとしてあの運動会の仮装行列が彼の心の中で蘇ったのではないか。
 となれば、ニナガワ演劇のルーツは開成だ。たしかに勉強もさせられたが、開成での学生生活には〈祭り〉がいっぱいあった。……
 蜷川氏の話に、「開成での授業でいいなと思ったのは、突然チェロを弾き始めたりとか、逸脱する先生が少なくなかったということです…」とあったことと呼応する。
 演劇に関する話の骨子は、かつて「東京グローブ座」発行の『the GLOBE・第13号』に載ったインタビュー記事とまったく変わらなかった。
……僕はあそこ(※東京グローブ座)の雰囲気が嫌いだったんだよね。アカデミックっていうか、英文の本持って来てひっそりと舞台観てウットリしているような、まあそれはそれでそういう人たちがいてもいいけど、それは演劇の本道じゃないからね。それは特殊な授業であって、そういう公演もあってもいいけど、そうじゃなくて僕は血湧き肉躍るような、芸能をやりたいなあって思うんだよ。この国では、シェイクスピアは芸能っていうべきなんだよ。現場の人間として、僕はあくまで芸能だと言い張りたいんだ。いわないとダメになっちゃうんだよシェイクスピアが。……
 内輪の講演会ということもありオフレコ発言もあったが、演劇部部長の在校生の素朴な質問に、「おっ、いい質問するなあ」と褒めてから真摯に応えたり、「嵐」松潤松本潤)のことを、「きちんと台詞を覚えて来るし、稽古のあと挨拶してからシャンとして徹夜の仕事に出て行く姿勢など、いいですよ」と評価したり、精神のしなやかさを感じさせた。







(当時17歳の「SMAP木村拓哉の初舞台。)


(「日劇ミュージックホール」公演『82'エロティカル序曲』第1部構成・演出蜷川幸雄
【鑑賞記】
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20101224/1293165294(『美しきものの伝説』)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110621/1308637568(『身毒丸藤原竜也』)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110714/1310638544(『血の婚礼』『オレステス』)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110715/1310720532(『メディア:大竹しのぶ』)
◆6/10日(金)夜は、蜷川幸雄演出・ソフォクレス作の「オイディプス王」を渋谷シアターコクーンで観劇。蜷川氏の演出になる同作品では、かつてギリシアの女優を招いての築地本願寺境内での公演を観ているが、これはまったく異なる演出である。コロスたちに雅楽の笙をもたせている。明らかに、これまで以上に東洋的あるいは日本的なる表現との融合を試みている。プログラムによれば、クレオン役の吉田鋼太郎に、「雄弁術の国の芝居」との意識で演じるよう指示したそうであるから、一方で情緒に流れないようぎりぎりの努力をしている。対話性と様式美との緊張関係を保つことに成功した舞台といえた。オイディプス野村萬斎、イオカステは麻実れい、ティレシアスは壌晴彦。音楽担当は東儀秀樹
 喜志哲雄氏も述べているように、当時の観客はみな、オイディプス王の悲劇の筋立ては知っていたのだ。「ソポクレースが想定していたのは、拡散された視点をもった観客、主人公と一体になりながらも主人公と距離をおいて眺めもする観客」(岩波『ギリシア悲劇全集第3巻』月報2)ということだ。オイディプスの視点にも、ティレシアスの視点にも、クレオンの視点にも身を置いて共感したり、反発したりしなければ深くは味わえない舞台であろう。今回「あなたこそアポロンの告げるライオスの殺害者なのだ」という決めつけの台詞にやはり衝撃を受けながらも、アポロンに仕える予言者ティレシアスの苦悩に共感するところが大きかったのは、こちらもギリシア悲劇の観客として成熟してきたのであろうか。
 「オイディプス王」の10年前の作品である「アンティゴネー」では、第一スタシモンでコロスたちが歌う「不可思議なるものあまたある中に、/人間にまさって不可思議なるものたえてなし」に始まる歌のなかで、「まこと、人間は、事に接して窮することもなく、/不治の病より身をかわす術すら/よく案ずるにいたりぬ。/案じ得ざるは、ただひとつ、/死を逃れる道ならん」とあるのが、ソフォクレスの人間および人生の根本的認識であろう。
 故斎藤忍随氏によれば(『アポローン岩波書店)、この「不思議なる」と訳されるギリシア語の「ディノス(deinos)」には「巧みなる」とか「恐るべき」「強力なる」という意味が含まれているそうである。恐るべき強力なる人間は、しかし自分の幸、不幸を決定する力がなく、時に禍いを回避できないのである。このような人間および人生の不条理性をさらに絶望的に突きつけたのが「オイディプス王」であるという。
……スフィンクスの謎を解くとは自然の秘奥を探り、その秘密を暴露することであり、そういう大それたことができる者は反自然的な行動の主でなければならぬ。異常な知の持主オイディプースが、自分の父の殺害者にして自分の母の夫であるのは当然である。
 このオイディプスの絶望と没落をもたらしたのは、「舞台に一度も登場はしない」アポローンの神である。陰のもう一人の主役なのである。Kittoのギリシア悲劇研究によれば、イオカステは香をたいてアポロンに祈るのだが、真実をいち早く察知し、奥へかけ入って縊死してしまう。
 彼女が救い求めてたいた香の煙りが立ち登っていたはずで、観客は空しい香煙の中に、彼女の祈りの空しさを感じとったばかりか、人の哀れな祈りを受けつけぬ神アポローンの非情さに気がついたに違いないのである。……(斎藤忍随『アポローン岩波書店
 川島重成国際基督教大学名誉教授は、公演プログラムのなかで、述べている。
……アポロンの光と闇の中に人間を発見していくこと、さらに宇宙の真理を証していくという意味において、『オイディプス王』はまさに宗教的なものを孕んでいるといえよう。……
 僧衣のような暗い朱色の衣をまとったコロスの一団は、マイケル・カコヤニス監督の映画「エレクトラ」の黒衣の女性たちを思い起こさせたが、集団で唱える日本語の台詞に少しわかりにくいところがあった。対決する無常感が最後は、笙の音とともに東洋的な無常感に収斂していった舞台ではあった。間違いなく、夏のギリシアで絶賛されるはずである。座席は、2階B列24番のS席。舞台全体が前2列目で鳥瞰できて最高であった。(2004年6/13記)
◆5/5(金)こどもの日、彩の国さいたま芸術劇場大ホールにて、蜷川幸雄演出の『タイタス・アンドロニカス』を鑑賞した。シェイクスピア作品の中でも、復讐の連鎖が生む悲劇で、もっとも残酷な場面の多い作品だ。個人的には、『ハムレット』の次に好きなシェイクスピア作品である。
 ローマ先帝の後継者争いから端を発し、敗北させたゴート王国の女王タモーラ麻実れい)の息子の一人を、自分の息子の弔いの犠牲として処刑したことにより、ローマを勝利に導いた武将タイタス・アンドロニカス(吉田鋼太郎)は、みずから指名した新皇帝サターナイナス(鶴見辰吾)の妃となったタモーラの復讐の餌食となってしまう。息子たちは次々と反逆者および犯罪者として殺され、最愛の娘ラヴィニア(真中瞳東風万智子)は、タモーラの二人の息子たちから乱暴され、両手を切断され舌を抜かれてしまう。
 (タイタスとラヴィニア:「同公演プログラム」から。写真は、清水博孝)
 タイタスは弟マーカス(壤晴彦)および唯一生き残った息子ルーシアス(廣田高志)と協力して、ゴートの軍の力も借り、タモーラ親子に復讐する。ゴート軍との和睦の宴として設定された機会に、二人の息子をあらかじめ殺して肉と骨のパイにして、その母親に食べさせ、彼女も殺してしまう。その前に、不憫な娘ラヴィニアの命も奪っていた。タイタスは、皇帝サターナイアスに殺され、彼をルーシアスが剣で刺し、その後ルーシアスが新皇帝に推挙される。タモーラの下僕のムーア人エアロン(小栗旬)は、タモーラの情事の相手であって、彼女のすべての復讐劇の段取りは、この男が考えたものであった。タモーラとの間にできた赤ん坊は、全身黒い肌だった。エアロンは、土中に埋められる極刑に処せられるが、彼との約束により、ルーシアスは、この赤ん坊の命を助けた。
 最後の場面で、ルーシアスの息子(子役)が中央でこの黒い肌の赤ん坊を抱いて、希望のような、絶望のような叫び声を発してこの劇は終わった。明らかに、復讐の血の連鎖が止まるところを知らない現代世界に対する、次世代に託した蜷川氏の祈りのメッセージであろう。インタビューに応えて、「希望を追い続ける意志とプロセスの中にだけ希望は内包しているものだと思います」(同公演プログラム)。
 舞台全体が白い色で統一され、布や糸で示される血の赤さをとくに強く印象づけられた。まるで、ある時期のサム・フランシスの絵画作品を思わせる、脱色彩の舞台であった。吹き出す血を糸や布で示す演出は、日本伝来の方法で、谷崎潤一郎原作の『恐怖時代』ですでに蜷川氏は試みているし、格別驚くことではなかった。
 とくには、マーカス・アンドロニカスを演じた壤晴彦のたしかで深みのある台詞回しには酔ってしまった。なお、わが鑑賞の席は1階LA列16番。両隣が若い女性で、そちらも気になった芝居見物だった。(2006年5/6記)
◆1/26(水)埼玉県与野本町下車彩の国さいたま芸術劇場大ホールにて、マチネー公演蜷川幸雄演出「コリオレイナス」を観劇した。かつて人形劇を挿入した演出のこのシェイクスピア作品を、東京グローブ座で鑑賞したことがある。ただ状況に靡くだけの民衆のありようを問うていて、たしか福田恆存は早くから注目していたと記憶している。しかし復讐の情念に燃えてローマ侵攻を狙うコリオレイナス唐沢寿明)を、母親ヴォラムニア(白石加代子)が母子の情に訴えて思いとどまらせるという、いわば〈家庭劇〉の面もあるのだ。むろんその説得は、対話性と策略性をはらんでいて、100%〈世話物狂言〉というわけではないにしても、わが「目眩症」つながりの白石加代子の言葉と振る舞いは感動的で、不覚にもハンカチを出すはめにさせられた。
 舞台は大きな階段で造られている。これはかつての「ハムレット」を思い出させた。権力への上昇と、そこからの瞬時の下降を暗示している。コリオレイナスと宿敵タラス・オーフィディアス(勝村政信)との剣の闘いの場面は、同じく階段上でのハムレットとレアティーズとのそれと重なった。蜷川さんは原点回帰しているのだろうか? 民衆のこのいやらしさ、たくましさそしてエネルギーに蜷川幸雄氏が抱くアンビバレンスこそが、変わらぬ氏の舞台の衰えぬ魅力なのであろう。(2007年1/28記)