寄席はよせ?

 
 昨日は、東京新宿末廣亭に赴く。落語愛好会のお誘いであった。たまたま東京駅で会長のS氏と遭遇、同じ総武線快速に乗っていたとのこと。そのまま同行して、地下鉄で新宿三丁目駅に降り立ち、末廣亭に直行。10月中席昼の部があと2人で終わるタイミング、躊躇せず入場。元石油会社社長のS氏は当然として、こちらは金もないのに「太っ腹」な浪費であった。
 しばらく後ろで立ってやり過ごし座敷席に案内されて、昼の部主任の春風亭栄枝の落語を聴く。「蜀山人」だ。おい大丈夫か、と心配させる展開。はたして大事なところをすっ飛ばしてしまった。
 弟子たちに促されて大酒呑みの蜀山人先生が、「くろがねの門より堅き我が禁酒 ならば手柄に破れ朝比奈」と禁酒を神棚の神様に誓った。弟子たちが留守のときに魚屋が現われて、手に活きのいい初鰹。これを肴に呑みましょうと、魚屋に唆(そそのか)されて、蜀山人先生酔いつぶれるまでどんどん呑んでしまう。そこへ弟子たちが帰って詰問するので、蜀山人先生、神棚の誓文が変わっているから大丈夫ととぼける。弟子たちが見ると、「我が禁酒破れ衣になりにけり やれ継いで(注いで)くれそれ刺して(注して)くれ」。
 栄枝師匠、この変わった誓文の歌が出てこない。というわけで蜀山人はこの場を乗り切ったそうで…とか語って繕っていたが、乗り切ったのは、師匠のほうではないか。終わって拍手はしたが、老人惚けの噺にではなく、入場料のほうにしたのであった。⦅立川談志の昔の高座では、はじめの誓文の歌で、『朝比奈ってのは「ご門破り」の朝比奈だよ。朝比奈順子(日活ロマンポルノのスター)じゃないよ』と、さりげなく〈解説〉を挿んだらしい。さすが。⦆
 http://chinaalacarte.web.fc2.com/rakugo-91.html(「東西落語特選:ビデオ鑑賞記)
 寄席はこういう当たり外れがあるので、困るのである。終了後近くの居酒屋で飲み会。参加9人。前から入場していた人の話では、けっこう面白いのもあったそうだ。 

 寄席という空間で演じられ、聴かれ観られる、ライブとしての落語のほかに、落語なるものは存在し得ない、というのが、堀井憲一郎氏の『落語論』(講談社現代新書)の一貫した主張である。落語の題名にこだわったり、筋立てを調べたりしても、その魅力の本質は解き明かせない。同じ噺でも、演者によって異なり、またその演者のその日のできによっても違ってくる。演者のある日のできばえは、たまたま集まった聴衆との関係が織りなす場の空気によって醸成されるとする。なるほど音楽のライブと本質において共通のものがあるのだ。本でお勉強したり、ともにつくりあげる一人としてのその場への参加を欠いて、テレビやDVDで鑑賞しても、十全に味わったことにはならないのである。
 芸能であるからには、売れなければいけないし、さしあたって売れている噺家が巧いのだ、という認識も首肯できるところだ。プロが評価する落語の技術は必ずしも落語にとって本質的なものではなく、聴衆を惹き付ける力はそれを超えたところにあると言う。では客観的で普遍的な落語像が成立するかといえば、それはあり得ないとする。なぜなら、どれもが各人の身体的情報で組み立てられた落語像だからだとのことだ。
『現在の立川談志を語ろうと、晩年の古今亭志ん朝について話し合おうと、人の意見は必ず食い違う。同じ時期に同じだけ同じ高座を見ていても、同じ落語論を述べる人はいない。同じ高座を見ていても、人によって感想が違う。つまり落語が出してくる情報はあまりに多岐にわたっており、しかも不完全なのだ。聞き手が補充して自分の中で勝手に落語を定着させる。この不完全さが、また人をかき立てていく。落語像は人によって違う。』
 立川談志師匠が「人間の業の肯定」として捉えた落語は、堀井氏によれば、「集団的トリップ遊戯」であるとし、日本近代化のどん詰まりに辿り着いていま関心が生まれているのではないかと見る。
『言ってしまえば落語は、自分が突出した存在でないことを確認するものである。「凡人であることを受け入れる」ものだ。偉人も、スターも、社会的成功者である大商家の旦那も、やはり人間でしかない、というところを見せてくれる。異常人の異常さを追体験するものではない。人間だいたい似たようなものである、ということを教えてくれる。人として生きていることはおかしくて馬鹿馬鹿しくて、それでも生きている、その姿を見せてくれるばかりだ。』

落語論 (講談社現代新書)

落語論 (講談社現代新書)

⦅写真(解像度20%)は、東京都台東区下町民家の、上アベリアにとまるアゲハ、下開花も近そうなミセバヤ(ヒロテレフィウム=Hylotelephium)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆