「天人の分」

 浅野裕一・湯浅邦弘編『諸子百家〈再発見〉ー掘り起こされる古代中国思想』(岩波書店)は勉強になる書物である。後漢時代の『漢書』芸文志による九流百家の儒家道家陰陽家・法家・名家・墨家縦横家・雑家・農家に兵家を加えた諸子百家の思想および人物について、中国本土で発掘解明されている新出土資料によって得られる新たな知見を紹介している。新出土資料とは、1993年発掘の湖北省荊門市郭店の楚墓竹簡と、1994年上海博物館が香港の骨董市場から購入した、戦国楚簡である。かつてより古文献については、周知のように古代の文献の成立や内容を伝承通りにほぼそのまま信じる信古派と、とくに清代に活発となった、『左氏伝』『周礼』などの文献は、後代の偽作とする疑古派(やや柔軟な釈古派も含めて)との論争対立があったが、これら資料の解読によって、老子孫子孫武)の活躍および時期など信古派に有利な結論が導かれているようなのである。秦代のいわゆる「挟書の律」による焚書(ふんしょ)と思想統制が多くの思想書物を失わせしめ、そのことが古代中国思想史を考察するにあたって考古学的解明との突き合わせをより必要とさせているのだろう。
 今回の東日本大震災を、儒教主流の考えに基づいてだろうか、人格神的な天の下した禍い=天譴(てんけん)と捉え、あとで詫びてその発言を取り消したどこぞの知事がおられたが。荀子は「天人の分」を主張し、自然現象は人為の及ばない営為であり、ここには天の意志などは現われていないのであるとした。つまり理法として天(自然法則・自然現象)を押さえ、有意志の人格神としての天を否定したわけである。地震津波はプレートの境界で起こる自然現象と見る、現代科学の自然観と近いといえる。ところが、『窮達以時』と名づけられた郭店楚簡には、「天有り人有りて、天と人には分有り」と述べられていて、すでに荀子以前に「天人の分」の思想があったことが判明したのである。荀子の独創ではなかったのだ。
 動物が生きるためにとる形態や手段をその動物の本性と定義すると、教科書的には、孟子性善説荀子性悪説との対立が知られている。孟子荀子も本性を人間に限定して論じているところが共通している。孔子には「性相い近し。習い相い遠し」の言葉があり、「これに基づくならば、孔子は善なる行為を行う能力がすべての人間に同じように存在するとは考えていなかったのであり、人間の本性にかなり差があることを認めていたようである」。
 性善説孟子といえどもいわゆる四端(惻隠・羞悪・辞譲・是非の心)を「拡(かく)して之を充(おお)いにする」という後天的努力を求めていたのであるし、荀子は、「師法の化、礼儀の道」による人間の教化を強調しているが、性そのものを絶対的に悪とすれば、「人間自身は後天的な作為をなし得る根拠すらもっていないということになるはず」で、性を完全に悪であるとはしていなかったのである。郭店楚簡『性自命出』および上博楚簡には、「性は命より生じ、命は天より降る」とあり、人間の道徳的行為の根拠は、天によって保証されているということになる。同時に、人間が善に赴くためには、人間に対する後天的な働きかけが必要であることを主張している。つまり孟子の説とも荀子の説とも大いに共通性のある考え方の基本的な発想が、戦国前期以前に既に準備されていたことがわかるわけである。
『現代の自然科学の知識に基づくならば、それぞれの生物の種はDNAによって定まっているということになろう。したがって、ある種の生物の本性を善であるとか、悪であるとか価値を付すこと自体、まったく意味がないのは当然である。孟子性善説荀子性悪説は今なお高等学校の教材にもなっており、非常に有名であるが、環境問題などが重要になった現代においては、生物一般を視野に入れつつ人間を相対化した、道家の性説の方がむしろ説得力を持ち、適合しているといえよう。』

諸子百家「再発見」―掘り起こされる古代中国思想

諸子百家「再発見」―掘り起こされる古代中国思想

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のアジサイ(紫陽花)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆