生き物たちとの共生とは

東京新聞」4/11夕刊紙上で、哲学者の梅原猛氏が、人災としての今回の福島原発事故について触れ、近代文明の理念そのものの危機であるとしている。それはそれとして、もはや最終的なエネルギー供給の戦略目標は、「脱原発」or「減原発」にならざるを得ないだろう。「自然との共生」に関してはどうだろうか。
『私は五十年にわたる日本研究をもとに、日本文化についての論をまとめようとしている。「草木国土悉皆成仏」という思想が日本文化の根本思想であり、それは世界史的にも重要な思想であると考えていた。しかしこの大震災が表す地球の怒りというべき観念が私の哲学体系には存在していなかった。』
 梅原氏の「草木国土悉皆(しっかい)成仏」もしくは「山川草木悉皆成仏」は、天台本覚論の「山川草木悉有(しつう)仏性(ぶっしょう)」のことばの言い換えであろうが、有情の動物のみならず、無情の植物にも仏性を認め、同じいのちある者=衆生として共生をはかろうとする考えであろう。
 被災地での犬や猫などのペットの扱いをめぐって、ネットで議論があったらしい。こちらは、人間中心主義の立場に組したい。まず行方不明の人間の捜索を最優先させるべきであると思う。
 かつてわがHPでreviewを書いたことのある、高橋敬一氏の本について再び紹介しておきたい。
◆農学博士でカメムシ採集人の高橋敬一氏の『「自然との共生」というウソ』(詳伝社新書)は、いわゆる「自然との共生」の主張および活動が、人間中心の思い込みにすぎないことを暴露し批判している。たしかに人間の側の動植物あるいは自然景観保護の運動は、人間以外の側から見れば恣意的で、人間の都合・美意識によって決定されているといえるだろう。(略)
 高橋氏は、「利己的な遺伝子」が人間生命の本体であるとのけっこう知られた生物学的前提に立って、遺伝子がみずからの繁栄存続のために人間の種と個体を操り、その方向に適う限りで、人間の種・個体が自然を利用・改変してきたのが、これまでの自然との関わりの歴史であって、いまさら「自然との共生」を主張するのは、身勝手にすぎないとする。しかも保護の対象とされる自然景観も、時代ごとの個々人の郷愁によって存在しているのであって、世代によって異なる望ましい景観(の物語)と、人間以外の動植物の生存条件を広い視野で公平に考えているわけではない。
 足尾銅山鉱毒で人間が住まなくなった栃木県渡良瀬遊牧地、アメリカの水爆実験で無人となったビキニ環礁ソ連チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故で「死の地帯」となったチェルノブイリ一帯などは、いま、新しい生き物たちが出現し、「人間の不在」により野生の王国となっているそうである。驚きである。人間の存在そのものが自然破壊の元凶なのだ。この事実を知るだけでも本書を読む価値があろう。
 老荘思想に通じるものを感じる読者もいようが、著者は「自然(じねん)」の自然に身をまかせられるとは信じていない。その点で大いに共感を覚えた。
『だからといって私は、現在も進行している人為的な環境改変が、人間社会の存続に大きな脅威となっているのを否定するわけではない。ただ私は、そうした環境の変化をもはや食い止めることはできないと思っているだけだ。』(2009年4/20記)
⦅写真(解像度20%)は、東京上野不忍池の桜。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆