もともと「情報化社会」などない

 東北のどこかの被災地で、拡大スピーカーが破損していて、地域被災者への連絡に難儀していることが、今日のNHKあさイチ」で紹介されていた。掲示による伝言が、地震直後は大いに利用されたらしい。むろんTwitter&メールなど利用機会が多くなるに至るのであるが、「古典的」伝達手段も活躍の場を失ってはいなかったことに、感動するのである。
 しかしいっぽうでは、福島第一原発事故放射能汚染をめぐって、多くは素人のジャーナリストかトンデモ系らしい研究者の、私憤・公憤ないまぜの憶測・議論が、ネット・新聞などに飛び交い、政府によるたしかな情報提供の欠落が、我々のいらだちを生んでいる。「放射能汚染を巡る日本人の誤解と政府の説明責任:ロバート・ゲイル博士に聞く」は、そのあたりの不満を解消してくれる。
  http://diamond.jp/articles/-/11772
「長期モニタリングと変動解析」のような研究レポートが、(某原子物理学者の推奨で)ネットで読めても、ストロンチウムは、福島で検出されていないのかどうかの情報はない。
  http://rms1.agsearch.agropedia.affrc.go.jp/contents/JASI/pdf/JASI/72-4549.pdf 
 どこかでこの震災で「情報化社会」は終焉をみたのではないかとの〈意見〉を目にしたが、「情報化社会」など、実体としてはもともと存在していなかったのである。そのことはすでに15年も前に、佐藤俊樹氏(当時東京工業大助教授)が指摘している。
『ポスト近代社会にしろハイパー産業社会にせよ、なにか確定した内実があるわけではない。「情報化社会」の具体的な中身、つまり情報化が生みだすはずの新たな社会のしくみは、その都度かなりアドホック(※ad hoc=この問題に限って、特別に、の意味)に、イメージされている。結局、「情報化社会」といっても、情報技術の発達と論理的に結びついた何かが考えられているわけではないのだ。その意味で、「情報化社会」には実体がない。「情報化社会」の本当の中身は空っぽなのである。』(『ノイマンの夢・近代の欲望』講談社選書メチエ

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の海棠(カイドウ)の花。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆