鳶魚の「相撲の話」

 それほどの相撲ファンではないが、春場所の中止決定は寂しいことである。八百長の物的証拠が出てしまった以上、法律問題として対処せざるを得なくなってきていることは理解できる。しかしあまり〈殺菌スプレー〉を撒き過ぎないよう願いたいものである。これまで「おっ、これは注射の相撲だな」などと、八百長を推測しながら観る、不埒な愉しみもあったのであるから。
 書庫の『三田村鳶魚(えんぎょ)全集』(中央公論社)を探して、第十五巻収録の『相撲の話』を発見、そのなかの「相撲の話」を読んでみた。面白い。興行であり、見世物=芸能であった江戸時代の相撲のことがイメージできた。寺社の境内で催される勧進相撲と、「素人が寄って勝手に取る」辻相撲とがあって、はじめは両方、しだいに辻相撲だけ禁じられるようになり、宝永(1704年〜)以後禁令が出されていないので、銭を取る勧進相撲のみが残ったことになる。六本木の〈暴走族〉のような手合いが勢力をもつのを警戒したためらしい。
「何のためにこういうものを禁じたかといいますと、相撲風俗のことは別に話さなければなりませんが、概して言えば、無頼風俗、遊俠というような腕ッ節の強い連中が出て、良民を困らす悪風がある。勧進相撲や辻相撲があると、どうしてもそれを奨励するようになるから、しばしば法度が出るようになったのです。」(同書p.15)
 家斉・家慶将軍のころ(1787年〜)、将軍の相撲上覧が何回かなされ、「将軍が相撲をお好みになったために、相撲気分が強くなり、江戸の興味も、おのずからここに集まるようになった」とのことである。「物好みからの女相撲」やら盲人の相撲やら、子供相撲やらも盛んに行なわれたらしい。男女の力持ちなども、見世物に活躍の場を与えられたらしいが、「こういうものがはやるのは、相撲の繁昌する傍証とも見ることが」できるのだ。それにしても筑波山(文化)、勢力佐助(嘉永)などという俠客と区別のつかない相撲取り、「ばかに大きい女ではあったが、女ぶりも悪くなく、色白で肌がまことに綺麗な女であったそう」な私娼上がりの力持ち、ともよなど、魅力的な人物たちが、相撲の興隆とともに出現していて、痛快である。

侠客と角力 (ちくま学芸文庫)

侠客と角力 (ちくま学芸文庫)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のデイジー(Day's Eye)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆