上野不忍池池畔でチェーホフ観劇





 
 一昨日(8/17)は、東京上野不忍池水上音楽堂でのtptプロデュース公演・門井均演出『かもめ』を観劇.池の蓮の花を楽しんでから入場した.チェーホフ劇では、個人的に最も好きな作品だ.池を湖面として見せるのかと予想したが、外れた.「広い並木道が、観客席から庭の奥の方へ走って、湖に通じているのだが、家庭劇のために敷設された仮舞台にふさがれて、湖はまったく見えない」(中公『チェーホフ全集12』)と記された原作にここは忠実であった.登場人物では、作家志望のトレープレフをひとり秘かに思慕しながら、地味な教員の妻となる道を選ぶ、田舎屋敷支配人(管理人)の娘マーシャに注目するが、かつて観た舞台の、三田和代のマーシャの印象が強く、今回もそれを払拭する存在感は感じられなかった.チェーホフ劇であるからそれぞれの年齢が抱く、熱情・悔恨の普遍性がさりげない台詞から読みとれるが、この舞台では、疾駆する青春の愚かさと美しさがとくに強調されている印象だ.蜷川幸雄演出の『ロミオとジュリエット』の舞台を、思い起すところもあった。
 ニーナ役の黒川モモは、『ボレロ』のシルヴィ・ギエムを思わせるようなしなやかさでトレープレフの劇を演じ、池畔の観客席と舞台を跳ね回った.挫折してトレープレフの前にやつれた姿で現われた彼女は、「わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの」(前掲書)と語る.いまという時代にこそふさわしい台詞で、忘れがたい.
 門井均演出で最後に驚かされたのは、「ぼくが信念がもてず、何が自分の使命かということも、知らずにいるのだ」とニーナに打ち明けたトレープレフが、ピストル自殺するはずのところで、この舞台では、川に飛び込み、しかも死なずに水中から出てくる.自殺まで茶番になってしまうということか。同じくチェーホフ原作で、ニキータ・ミハルコフ監督の映画『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』のプラトーノフと同じだ.プラトーノフも川に身を投げるが、川が浅くて死なずに終わってしまう.ピストル自殺を狂言(演技)として扱った、鹿島将介演出(mixi2008年観劇記を下に再録)とも異なる、面白い演出ではあった.気温が夜になっても下がらず、団扇片手の芝居見物であった.「蒸し蒸しすること。ごろごろザーッと来そうね」(前掲書)と第1幕でのマーシャの台詞を考えれば、ふさわしい環境であったのだろう。朝倉摂さんの重厚な舞台美術には堪能した.

……昨日(2/28)北区王子の「シアター・バビロンの流れのほとりにて」において、チェーホフ原作、鹿島将介構成・演出の『かもめ』(「重力/Note」公演)を観劇した。はじめての芝居小屋で、南北線王子神谷駅からやや遠いところにあるが、外観および中の雰囲気は悪くない。かつて「東京演劇アンサンブル」の『かもめ』を観たとき、東京練馬区関町の「ブレヒトの芝居小屋」はパイプ組みの館内で、体をぶつけないよう注意したものだったが、さしてパイプ組みの多くないこちらの小屋で帰り際頭をぶつけてしまった。幸い軽傷ですんだが、まさに人生そのものが演劇的(喜劇的?)なのだ。
 この作品は、台詞や動きの中からいわば指示表出的な表現の部分を削ぎ落とし、自己表出的な表現を中心に再構成されている。「東京演劇アンサンブル」のリアリズムとは対照的である。舞台真ん中に劇中ニーナ嬢が演じる舞台の後部スクリーンを設け、能舞台の橋懸かりを思わせる通り道が斜めに走っている。象徴的である。驚いたのは、ク・ナウカの吉植荘一郎が出演していたこと。いままで声だけ親しんでいたが、今回は「体」も登場。アルカージナの兄ソーリン役をみずから楽しんでいるように演じていた。笑いたい声の出し方と所作なのだが、集まった観客の〈空気〉も関係し、うっかり笑えない。やっぱりチェーホフはどこかで笑わないとよろしくない。ニーナ嬢役の女優さんはどうも〈自分的〉にはイメージがあわなかった。ペットボトルを後背にたくさん配置して照明を当てると、みごとに夜の湖面である。美しかった。これで成功している。とても面白かったと記しておこう。
 ヤスミナ・レザ作の『スペインの芝居』(tpt公演)も、演劇とは、俳優とは、人生とは、それを演劇で追求していたが、この舞台もシュールなしかけに隠して真摯な問いかけがある。
『スペインの芝居』では、最後に「女優」の演奏するピアノの曲が流れ、「音」というたしかなものの実在を実感させてくれたが、こちらは、自殺するはずのトレープレフは芝居用のピストルで胸を撃つのみで、「もう芝居はたくさんだ、幕を下ろしてくれと」と絶叫して終わった。もうちょっと観客と演劇を信頼してもよくはあるまいか。不満を残した結末だ。ちなみに原作では以下(中公『チェーホフ全集12』)の通り。
ドールン:(雑誌をめくりながら、トリゴーニンに)これに二カ月ほど前、ある記事が載りましてね……アメリカ通信なんですが、ちょっとあなたに伺いたいと思っていたのは、なかでもその……(トリゴーニンの胴に手をかけ、フットライトの方へ連れてくる)……なにしろ僕は、その問題にすこぶる興味があるもので……(調子を低めて、小声で)どこかへアルカーヂナさんを連れて行ってください。じつは、トレープレフ君が、ピストル自殺をしたんです。…… (2008年3/1記)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、イチモンジセセリチョウが止まったハイビスカス・レモンクイーン(Hibiscus Lemon Queen)。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆