日下武史の舞台

 劇団四季の芝居を観ることは、(結果的には)日下武史の舞台を観ることであった。昔能の舞台を観に行くと、宝生流ワキ方の森茂好がだいたい出演していたような個人的印象がある。重なる印象で、どちらもその声に魅了されたものである。1987年6月青山劇場公演、浅利慶太演出の『この生命(いのち)は誰のもの?』の主演舞台が代表作ではなかったか。観劇の軌跡を記録しておき、名優のご冥福を祈りたい。


『イフィジェニイ』:1962年6月、ラシーヌ作、宮島春彦訳・演出。第一生命ホールにて。アルカス役。



ジークフリート』:1964年9月、ジャン・ジロドゥ作、安堂信也訳、浅利慶太演出。砂防会館ホールにて。ロビノー役。



『トロイ戦争は起らないだろう』:1965年2月、ジャン・ジロドゥ作、諏訪正訳、浅利慶太演出。第一生命ホールにて。デモコス役。


『悪魔と神』:1965年10月、ジャン・ポール・サルトル作、宮島春彦訳、浅利慶太演出。日生劇場にて。ハインリッヒ役(※ゲッツ=尾上松緑、ナスチ=水島弘、カール=田中明夫、大司教=瀬下和久)。



『アンドロマック』1966年5月、ラシーヌ作、宮島春彦訳、浅利慶太演出。日生劇場にて。オレスト役。




『カラマゾフの兄弟』:1967年2月、ドストエフスキー原作、ジャック・コポー脚色、宮島春彦訳、浅利慶太演出。日生劇場にて。ドミトリイ・フョードロヴィッチ・カラマゾフ役(※フョードル=田中明夫、イヴァン=水島弘、アリョーシャ=石坂浩二or浜畑賢吉、スメルジャコフ=池田鴻、グルーシェンカ=斎藤昭子、カチェリーナ=三田和代



アンドレイ・シェルバン
桜の園』:1978年7月、チェーホフ作、倉橋健訳、アンドレイ・シェルバン演出、日生劇場にて。ロバーヒン(商人)役(※ラネーフスカヤ=藤野節子、アーニャ=久野綾希子、ワーリャ=斎藤昭子、トロフィーモフ=浜畑賢吉



『ひばり』:1978年9-10月、ジャン・アヌイ作、鬼頭哲人訳、宮島春彦補筆、浅利慶太演出。日生劇場にて。シャルル役(※市村正親とW。)



『エクウス(馬)』1986年6月、ピーター・シェーファー作、倉橋健訳、浅利慶太演出。青山劇場にて。ダイサート役。




『この生命(いのち)は誰のもの?』:1987年6月、ブライアン・クラーク原作、浅利慶太潤色・演出。青山劇場にて。早田健(患者)役。




『ブレイキング・ザ・コード(BREAKING THE CODE)』:1988年9月&10月、ヒュー・ホワイトモア作、吉田美枝訳、浅利慶太演出。銀座セゾン劇場にて。アラン・テューリング役。

鹿鳴館』:2006年5月、三島由紀夫作、浅利慶太演出。劇団四季自由劇場にて。影山伯爵役。この舞台については、かつて観劇記をHPに記載した。再録したい。

◆5/10(水)夜に、劇団四季自由劇場にて、同劇団公演、三島由紀夫作・浅利慶太演出の『鹿鳴館』を観劇した。明治19年11月3日天長節の午前より夜半までの間に起こった事件を、前2幕は影山伯爵の邸内潺湲亭(せんかんてい)、後2幕は鹿鳴館大舞踏場を舞台にして描いた、「筋立ては全くのメロドラマ、セリフは全くの知的様式化、という点に狙いがある」(三島由紀夫)演劇である。4幕の前半と後半とで場所が移動しているので、完全な「三一致」の舞台にはなっていないが、明らかに西洋古典悲劇の様式に則っている。迂闊にもこの作品に接するのは今回が初めてであるが、セリフ劇としての緊張感は最後まで保たれていたといえた。

 影山伯爵夫人朝子(野村玲子)と、芸妓時代の恋人清原永之輔(広瀬明雄)とが20年ぶりに再会し、互いの誠実を賭けた約束をする。二人の間にできた息子久雄による父清原暗殺を未然に防ぐため、これまで公の場に出なかった朝子が鹿鳴館の舞踏会に出ること、いっぽうの清原は、壮士らを乱入させて鹿鳴館に集い「猿の踊り」をしている政府高官と貴婦人連に冷や水を浴びせ、「外国人に肝っ玉の据った日本人もゐるぞといふところを見せて」やる計画を中止することを互いに誓うのである。朝子には、久雄の養育をかつて清原に任せてしまった、清原には、異母兄弟たちより冷たい育て方をしたことについてそれぞれ負い目があった。久雄には、侯爵の娘顕子という恋人がいて、公爵夫人から二人の逃避行を手助けしてくれと、朝子は頼まれていた。このあたりまったくメロドラマの筋立てだ。

 浅利演出は、美しい舞台装置のなかで登場人物の動きを大仰にはさせない。あくまでも「磨き上げられたセリフが宝石の礫のように飛び交ってきらめく」(野口武彦氏)舞台が目ざされている。影山伯爵(日下武史)の謀で誤って久雄を殺してしまい、呆然と鹿鳴館を立ち去る清原を追った暗殺者飛田(血の匂いが大好きな男)のピストルの音が聞こえ、

朝子:おや、ピストルの音が。

影山:耳のせゐだよ。それとも花火だ。さうだ。打ち上げそこねたお祝ひの花火だ。

という第4幕最後のセリフまで、まさに名曲の演奏のように、連なるみごとなセリフに酔わされた。

 原作のことばにあたってこの夜の陶酔をもう一度味わってみた。とくに印象に残ったセリフは次のところか。(席は、1階3列、中央1・2列席は外してあったので、今回最前列。セリフ劇にはふさわしい場所であった。)

顕子:でもお母様、悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて? 幸福な人には景色なんか要らないんです。(第1幕)

清原:……少し大言壮語をしますよ。私には激しい夏や厳しい冬だけがふさわしいので、こんなうららかな小春日和は私には毒でしかない。だからこんな日にも私は、身を灼く夏や凍てついた冬を、自分の身内に用意しておく必要がある。自由とはさういふものだ。そしてこの小春日和にだまされて居眠りをしてゐる人たちの目をさましてやるのだ。(第2幕)

清原:私の中にはこの歳になっても、一人のどうにもならない子供が住んでゐるのです。

朝子:その子供を大切になさらなければいけませんわ。女が愛するものも、民衆が愛するものも、猛々しい立派な殿方の中のその汚れのない子供なんですわ。(第2幕)

影山:あなたは私を少しも理解していない。

朝子:理解してをります。申しませうか。あなたにとっては今夜名もない一人の若者が死んで行っただけのことなんです。何事でもありません。革命や戦争に比べたらほんの些細なことにすぎません。あしたになれば忘れておしまひになるでせう。

影山:今あなたの心が喋ってゐる。怒りと嘆きの満ち汐のなかで、あなたの心が喋ってゐる。あなたは心といふものが、自分一人にしか備わってゐないと思ってゐる。

朝子:結婚以来今はじめて、あなたは正直な私をごらんになっていらっしゃるのね。

影山:この結婚はあなたにとっては政治だったと言ふわけだね。(第4幕)

影山:ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦莫迦しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやって来る。鹿鳴館。かういふ欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな。(第4幕)

夜想♯耽美』(ステュディオ・パラボリカ)の特集「三島由紀夫、死の美学」において、三島と親交のあった高橋睦郎(むつお)氏によれば、「なぜ彼が死を選ばなければならなかったかといえば、僕が思うに、生きているという実感が、どうしようもなく希薄だったからではないでしょうか。存在感の希薄さを抱えていたということです」ということである。とすれば、この作品がいよいよ魅力を放つことになるであろう。(2006年5/12記)