教育における文学的センス

(わが家の庭の花梨=カリンの実。同じバラ科のマルメロとは、葉の形状および実の表面などで区別できる。)
 西部邁氏の『教育—不可能なれども』(ダイヤモンド社)は、「問題としての教育」について、歴史と人生に持続性をもたらしてきた知恵への信頼を回復することを願いつつ論じている。この知恵とは、「真善美」の基準の拠り所となるものである。相変わらずの戦後思潮に対する嫌悪はさておき、次の教育観には共感する。
……汝の教育体験を一言で総称せよと問われたら、私の答えは簡単明瞭です。子供たちの精神の深部に達するような行為(発言と振る舞い)を大人たちが演じつづけよ、ということにほかなりません。そうしないかぎり、どんな「制度改革」も「制度弄り」に落ちていくことほぼ必定でしょう。……
 詰め込みそのものがまずいのではなく、専門分化してしまった知識の詰め込みに問題があるとし、福澤諭吉の「人間交際を保たんがための」学問という考え方の再評価を促しているところは、勉強になる。
……こうしたものとしての社交にとって知識がどういう意義があるか、という価値観の問題を明確にしなければなりません。その価値観が軸となって、そのまわりに様々な情報が有機的に組み合わされていくにちがいないのです。そのようにして社交の実践のなかで再編成される知識はいわば実践的認識であり、けっしてブッキッシュなものにはとどまりません。それは人間の生活のなかに血肉化されるものですから、学習のなせる知識ではなく、経験を踏まえた生きた知識となるでしょう。……
 西部氏は、知育と徳育の連関を求めているが、氏の「徳育」とは、たんなる道徳の押しつけを意味しない。教師は公徳を具体的には教えられないのであって、「知育のやり方における言葉づかいや振る舞い方において、巧みに表現する」ほかないとしている。
……しかし、知育における課題の選び方、その解答の説明の仕方、それを現在の社会状況と照応させるやり方、とりわけ人間の死生観とのかかわらせ方、それらの作業における決断と説得は、すでにして「言葉の政治学」に属するといってよいほどの困難な作業です。その困難に立ち向かっていく教師の姿勢は、公徳を習得したいと欲している子供たちには、伝わるに違いないのです。そしてそれが伝わりさえすれば、子供たちは(独学によってでも)気概を持って知育に取り組んでいくに違いありません。……
 ここで西部氏は、「とりわけ人間の死生観とのかかわらせ方」をめぐって、文学の重要性を指摘している。さすがに慧眼である。
……授業科目として文学をどう位置づけるかという技術的な話をしているのではありません。教育術には文学のセンス(感覚および認識)が必要だ、ということをいいたいのです。……
 現代人の精神病理の根幹に表現分裂があるとしている。ヤコブソンの「失語症言語障害」を援用して、物事の些末な事実の繋がり(隣接性)にのみ関心が集中して、理念を見失うか(類似性障害)、類似性表現を多用して物事の繋がりがわからなくなるか、の表現分裂が起きていると述べている。これは、「表現一般における具象と抽象の乖離、個別と普遍の分裂、特殊と一般の懸隔」ということで、「この表現分裂の巻き起こす遠心力のせいで、大きな空洞が作られている」現代の精神状況を無視して、「教育に競争原理を導入せよ」などと宣(のたまわ)っても虚しいことだということである。
 それにしてもカタカナ語が多い。かつて西部氏の著作中「欲望のsaturation」なる言葉を何回か散見した折、「saturation」は、「飽和状態」の意味の化学用語で、『OXFORD』によれば比喩としての使用法はないと、英和辞典編集者の知己O氏から教示をいただき、その旨認めた葉書を西部氏に出したことがある。この著書中には「欲望のsaturation」の語はない。(「saturation point」とか「 Market Saturation」という語は辞書に載っている。)