『美しきものの伝説』





 一昨日12/22(水)は、彩の国さいたま芸術劇場(地下1F)インサイド・シアターにて、宮本研作、蜷川幸雄演出の『美しきものの伝説』マチネー公演を観劇。昔観た文学座の公演(1968年)以来の同作品の舞台である。この作者の田中正造を主人公とした『明治の棺』・青鞜社を描いた『ブルー・ストッキングの女たち』、同じ時代を扱った木下順二の『冬の時代』などの舞台は前後に観ていて、大逆事件を題材にした、福田善之の『魔女伝説』の戯曲作品も読んでいる。思えば明治の次の時代としての大正時代が、かつてはずいぶん演劇で取り上げられていたといえるし、個人的にも数はともかく、割合熱心に付き合ったことになる。
 文学座が来年早々にこの作品を上演するそうなので、そちらも観劇して、かつての文学座公演のBS放送録画ビデオも観た上で、三つの演出を比較することとしたい。(追記:文学座公演の録画ではなかった。)
「1968年の文学座の若手による優れた公演をみていたぼくは、まだ若かった現代人劇場の俳優たち、蟹江敬三石橋蓮司真山知子らと一緒に、新宿西口のションベン横町で焼酎を飲みながらその感動を語りあったことを思い出した。演劇的にはまだ幼いネクスト・シアターの俳優たちとの激しい稽古が始まった」と演出の蜷川幸雄氏が書いている(同公演パンフレット)。この演出家の出発点のひとつともなった伝説の舞台と対峙しつつ、原康義(先生=島村抱月)、横田栄司(ルパシカ=小山内薫)、飯田邦博(四分六=堺利彦)の3人以外は、Saitama Next Theatreの若手俳優たちによって、蜷川ワールドの舞台をつくり上げている。台詞のミス多く気にはなったが、面白かった。『身毒丸』の自己模倣であるか、特設の中央ステージ奥から黒子たちによって無数のガラスケースが、乳母車を押すように運ばれてきて、劇は始動する。そのなかには老人たち(Saitama Gold Theatre)が一人ひとり収められていて、いっせいに立ち上がりどこかに視線を向ける。老熟したこの時代の日本から、「美しきもの」たちが生き死んでいったあの大正の時代を想起するかのように。そして暗転して、大逆事件の刑死が報告され、売文社の事務所が現れる。
 ガラスケースは歴史の標本箱でもあり、劇の展開中は登場人物の心の殻でもある。また中央舞台における、書割りの代用を補助する効果とはたらきもしている。巧みな演出で、これだけで感心させられてしまう。
「美しきもの」たちの、演劇(芸術)と社会変革の理想にかける情熱は、しかし現在容易には共感しにくいところがある。資本主義のdoomsdayなど、ベケットの「ゴドー」同様待っても永久に来ないだろうし、もはや(平家残党の落人のようなひとのほかは)社会主義に夢を託すこともできまい。「美しい言葉にあふれるこの優れた戯曲を、日々生活する人々に提示することにためらいはないのか」と、演出家は自問している。文学座の1971年公演の舞台を観劇した、大逆事件で刑死の成石平四郎の一人娘意知子は、プロローグの「天井からロープがさがり、輪になった先端がかすかにゆれている。/紗幕に、大逆事件の新聞記事。被告たちの顔」のところで、絶叫とも悲鳴ともちがう動物の吼えるような声を発したそうである(田中伸尚『大逆事件岩波書店)。初演時はまだ同時代の問題であったのだ。
 なお、亡くなった黒岩比佐子さんの『パンとペン』(講談社)をようやく310頁まで読み進めていたので、この舞台の登場人物と相互の関係および展開について予備知識あり、理解しやすかった(ただしこの書の事実誤認は少なくないようだ)。堺利彦が収監されていた千葉監獄の建物は、千葉刑務所敷地内にあって、取り壊される前、ある特別の計らいで見学させてもらったこともあり、四分六(堺利彦)のイメージを親しみをもってつくることができた。 
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の山茶花(一人静)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆