ロバート・アラン・アッカーマン演出の『楡の木陰の欲望』を思い起こす

 日本でtpt制作の舞台をしばしば演出している、ロバート・アラン・アッカーマン演出の舞台では、東京南千住のTHEATRE 1010杮落し公演、tpt制作、ユージン・オニール作『楡の木陰の欲望』が印象深かった。2004年10/23記の観劇記を載せて、この演出家を偲びたい。

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◆今週の月曜日(10/18)に東京北千住に新しくできた劇場、THEATER 1010の開館記念公演、ユージン・オニール作、ロバート・アラン・アッカーマン演出による『楡の木陰の欲望』を観劇した。老農夫エフラム(中嶋しゅう)の3番目の若妻アビーに、寺島しのぶ、その農夫と亡くなった先妻との息子エバンにパク・ソヒというキャスティング。前列3列目の真ん中の席だったので、いま旬の女優寺島しのぶさんの胸がはち切れそうな豊満な肢体がよく堪能できて、それだけでも満足できた舞台ではあった。
 オニールのこの作品は何回か観ているが、今回はとくに現代性を感じさせられた。アッカーマンの演出も、神の不在と存在の無意味性という問題を意識しているようだ。パンフレットの演出ノート風の文章で述べている。
『自分たちの神に見放され、運命を操る力の正体を突きとめようとしながら現代に生きる誰もが世界や生や死と孤独のままで裸に向き合っています。我々はそこに答えを見い出そうとしますが、返事が返ってくることはありません。人間の純粋さを破壊し、幸福を阻害し、絶望と苦悩を生み出す力は確かに存在します。その「何か」は常に我々とともにあり、家の中や身体の中、土や空気の中にも潜んでいますが、その正体は杳として知れません。』
 アビーとエバンは激しく求めあい、二人の間に子供が生まれる。老農夫に新しい子供ができたとして催された祝宴に集まった近隣の者が、うっかり「アデーが農場を欲しいために跡取りを作ったのさ」と漏らしてしまう。利用されたかと誤解したエバンがなじると、彼への愛の証に、アデーは赤ん坊を殺してしまう。殺人犯としてアデーとエバンは保安官に逮捕されるのである。連れ去られる二人は、地平線の太陽の美しさにしばし見とれる。これが終幕の場面である。
 登場人物の誰もが、何かを所有しようとして行動しそこに破綻が生じている。早くから両親に死なれ、他人の家の雑事で不幸な青春と失敗した結婚生活を送ってきたアデーは、エフラムの家にはじめて入って、「私の家、私の寝室、私の台所……」と自分の所有物に感動する。ここは象徴的な場面として、印象に強く残った。この場面での寺島しのぶの視線は可愛らしい。しかしエバンの愛という根源的に所有したいものが現われると、最後にはそれらはどうでもよくなってしまう。人が所有したいものは、深いところでは、もっと宇宙的なものなのだろう。事物の所有ヘの夢は、世界を所有したい根源的願望のおそらく戯画であろう。世界を所有するための契機としての、アデーとエバンの互いの愛の所有は、結局は死と結びつくことによってでしか可能でなかったのだ。
 楡の大木に守られた堅牢で立派な農夫の家は、誰もが所有したいほどの建物であるが、一方では、そこから脱出できない、現実の生存の条件なのである。カリフォルニアの黄金を求めて旅立った兄たち二人に待っているのは、野垂れ死にか、また別の家の生活でしかないであろう。演出において、しっかりとした家の舞台装置を設置したのはうなずけるところであった。(2004年10/23記)

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