あらためて福田恆存「一匹と九十九匹と」を読む

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 秋草俊一郎著『「世界文学」はつくられる』(東京大学出版会)についての、『週刊読書人』8/21号掲載、比較文学者・作家小谷野敦氏の書評に、

……米国で使われるノートン版アンソロジーの、授業を進めるための懇切丁寧なマニュアルを紹介されると、文学というの は個々人が関心を持ち自分で探して読んでいくものだという原点に気づく。福田恆存が「一匹と九十九匹と」で言った ように、文学は少数派のものであり、そもそも教育や商業主義に馴染まないものだということに気づかされるのが、こ の無機質な書籍の功徳であろう。文学に関心のない生徒にいくら教えても無駄なのである。どうもこのところ、文学の 議論は出版社の戦略や文学部の大学教員の利権によっておかしなところをさまよっているようだ。衰退する一方の文学 業界が、秋草のような俊英を生み出すのは家貧しうして、ということか。……
 とあり、実にひさしぶりに福田恆存「一匹と九十九匹と」(新潮社版『福田恆存著作集7』1957年初版)を読んだ。所々に傍線が引かれ、何でこんなところに注目したのか、と今さらに疑問とある懐かしさを感じた。直接該当の箇所は次の通りである。「文学は——すくなくともその理想は、ぼくたちのうちの個人に對して、百匹のうちの失はれたる一匹に對して、一服の阿片たる役割をはたすことにある」の文章に続いている。

 政治のその目的達成をまへにして——そしてぼくは それがますます九十九匹のためにその善意を働かさんことを祈ってやまず、ぼくの日常生活においてもその夢を忘れたくないものであるが——それがさうであればあるほど、ぼくたちは見うしなはれたる一匹のゆくへをたづねて歩かねばならぬであらう。いや、その一匹はどこにでもゐる——永遠に支配されることしか知らぬ民衆がそれである。さらにもっと身近に ——あらゆる人間の心のうちに。そしてみづからがその一匹であり、みづからのうちにその一匹を所有するもののみが、文学者の名にあたひするのである。(p.245)

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