文藝評論の世界でも小林、吉本、柄谷が三大カリスマとして定着してしまうんだろうか
— 小谷野敦とちおとめのババ・バロネッタ (@tonton1965) 2020年8月17日
柄谷行人氏の評論集はかつてそこそこ読んでいたが、いまは読んでいない。『倫理21』(平凡社ライブラリー)は面白かった。ただ個人的には、カントの『道徳形而上学原論』『実践理性批判』をじっくり読んでいるので、そちらさえ読んでいればとくに必読とは思わない。
昔職場で、M大学で非常勤でドイツ語を教えていた人が、柄谷行人氏の『探求』(✻未読)の新刊が出ると、あたかもカルトの教祖の新たなご託宣が出たような〈興奮〉で人に貸していたのを思い出す。まさにカリスマである。
いまはたまたままとめて積んであった著書の何冊かを、ガラス戸の上だけ隠すために斜めに開いたカーテンの重しとして利用している。なかなか下から涼しい風が部屋に入ってくれないこの夏ではある。
学者でもなければ作品を保持しているわけでもない「批評家」なる存在が独立してあるかのように考えられていることがそもそも歪なのであって、その点で山崎行太郎が言っていることは正しい。しかしこの論旨を通すには、まず江藤淳を、そして柄谷行人を批判する必要がある。
— ミスター (@hahaha8201) 2020年7月19日
実作のない。業績を担保にしてない批評はけっきょく批評それ自体を設定するために自己言及的になってしまう。つまり言語ゲームになってしまうのだ。メタ的に現状の論壇なる擬制をあらかじめでっちあげなければ成立しないのが「創作の伴わない批評」である。
— ミスター (@hahaha8201) 2020年7月19日
平野謙のような「書評家としての批評家」ではない「批評的な批評家」という存在がバブルの恩恵を受けて大量に出現したことこそ問題で、けっきょく「批評家」も隠喩としての「フリーター」であったと考えるべきなんだよね。そして批評的な批評家はプラットフォームや作品を持ってないことが問題。
— ミスター (@hahaha8201) 2020年7月20日