「鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし」


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 比較文学者・作家の小谷野敦氏が紹介している賀状掲載、三橋鷹女の「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」の句に便乗して、昔書いたエッセイを再掲したい。

ぶらんこについて 

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 ぶらんこ遊びが、やがてさまざまな形で経験する、めくるめく陶酔、ロジェ・カイヨワの遊びの分類でいうイリンクス(眩暈)の、少年少女にとってはじめての出会いであるから、ぶらんこは、回想されるこども時代の象徴に選ばれやすい。黒澤明の『生きる』の主人公の老いた役人が、癌で残り少ない命を、こどもたちの公園造りに燃焼させ、できあがった夕方の公園のぶらんこに乗り「恋せよ乙女」と歌いつつ亡くなる最後のシ-ンは、ぶらんこの童心を示す象徴性が活かされていて感動的である。
 フィナ・トレス監督の『追想のオリアナ』も、ぶらんこが小道具として重要な意味をもって描かれた映画である。
 叔母のオリアナの死亡通知を受けとったマリアが、相続の手続きのためパリを発ち、ベネズエラの屋敷を二十年ぶりに訪れる海辺の森の中の屋敷で、かつてマリアはここで少女時代を過ごしていた。閉鎖的な空間で深い憂愁をたたえて暮らす叔母に、少女マリアは、階段の下から「見上げる何気ない視線に込められた無言の愛」(川本三郎)とともに、謎を知りたい抗いがたい衝動も抱いたのである。

 庭でぶらんこを見つけたマリアは、邸に駆け戻り、書きものをしているオリアナに尋ねる。
マリア「あのぶらんこは叔母様の?」
オリアナ「ぶらんこ?」
マリア「木に吊ってあったわ」
オリアナ「何のこと?」
マリア「埋まっているのをみつけたの。お庭にさびた鎖があったから、一生懸命引っぱったの。古い板と鎖が出てきたわ。土を払ったけど、壊れてたわ。」
 土の中から鎖と板を引っぱり出す少女の手のショット
                          (細川直子訳)

 オリアナは必死になって何を隠そうとしていたのか。実は彼女には激しく恋した青年がいたのである。幼いころからともに森の屋敷で育てられた、異母兄のセルヒオだ。
 ぶらんこをこぐ幼いオリアナの背を押してやったのがセルヒオだったのだ。ぶらんこは許されない愛をゆっくりと育んでいった、なつかしくしかし残酷な思い出の対象だったのである。

 マリアは庭の奥にぶらんこをみつけると、板に彫られた.文字を読む。

マリア「セルヒオからオリアナヘ」     (細川直子訳)

 納屋で異母妹を抱いているところを発見した父親は、セルヒオを銃で撃ち殺した。オリアナを永久に納屋に閉じ込めようとした父親は、メイドに毒殺されてしまう。
 少女のときには見えなかった真実が、再訪したマリアにようやく明かされる。回想の中のぶらんこの痛々しさはどうだろう。カリブ海サルサの音楽の陽気さ、華やかさを海面に放って、その底で、もはや揺れることのないぶらんこの切なさを堪えているのだろうか?
 ぶらんこは、その機能の面から、現実的にも比喩的にもエロティックな道具となるようだ。中国の場合である。

春宵一刻 値い千金
花に清香あり月に陰あり
歌管 楼台 声細々
秋韆 院落 夜沈々

 蘇軾の七言絶句「春夜」の秋韆について、中野美代子教授は、「ぶらんこ」のことで、「この遊戯は六朝時代には女子専用のものとなった。遊びかたはいまのぶらんことまったく同じ、ただし年がら年じゅう遊んでいるわけではなくて、主として寒食(冬至から百五日目、煮炊きするのをやめて冷えたものを食べる日)のときの遊戯であった」という。
 さらに「秋韆の揺曳」とは「性交時の女体の腰の動きを指す隠語」であり、「ぶらんこ遊びのときに強く押すと、若い女の着物の裾が乱れる。男たちには、それをながめる楽しみもあった」という現実的な効用も、あったことになる。中野はむしろ暗喩的な意味のほうに、注意を促している。
無人のぶらんこがだらりと垂れ下がった状態」を指す、「吊diao」と同音で声調のみ、ちがう言葉が、「陽根」のことであることから、垂れ下がった「ぶらんこに若い女が乗り、中空まで高く漕ぎ上げる―これが秋韆なるものの隠された本質なのではあるまいか」。中国には、「ぐにゃぐにゃの縄を天高く放りあげると、ピンと直立するという話が多い」という指摘も想像力を刺激して面白い。
 結局この詩のイメ-ジは、ふけいく春の夜の屋内の閨房ですでに〈花芯〉は清香を放っていて、院落(中庭)にはぶらんこがうち捨てられながら、中の房事を暗示しているということになるようである。(中野美代子「秋韆のシンボリズム」『Reprsentation』1992、004号)
 まるでそれぞれが銅版画のような服部冬樹の写真集(共同文化社)に、「ぶらんこのおんな」が収録されている。麦藁を深めにかぶったヌ-ドの女がぶらんこの台に立ったものと、坐ってこぎそうな瞬間のものと二つがあり、1ペ-ジの作品としては立ったほうの写真が載っている。麦藁が少女時代を示しているとすれば、豊満な肢体はそこからの直線的な時間の推移を思わせ、動かぬぶらんこ、つまり静止した時間のなかにエロティシズムが封じ込められている。美のオブジェであるこの裸体にはいささかの生臭さもない。
 ぶらんこの揺れが、女の生臭さを露にしたときをとらえているのが、室生犀星の認めるところとなった、葉山修平の「バスケットの仔猫」(『バスケットの仔猫・日本いそっぷ噺』龍書房所収)である。

 

 菖子はぶらんこを自分で漕いだ。最初は地面を足で蹴った。菖子が大きく漕ぐと、ぶらんこの綱の吊り根がきしんだ。菖子のワンピースのスカ-トが、風を孕んで太腿までみせる。綱を両手でつかんでいるので、腋の下が見えた。腋毛が黒く見える。義兄は菖子の方は見ないで、娘と話をした。順子はガラスのボウルに梨を入れて来た。菖子を見て眉を寄せた。菖子は順子から注意されても、すぐにはぶらんこから下りなかった。
 梨を平らげたあとで、助教授は娘を連れて散歩にでかけた。順子には菖子の腋毛が我慢できなかった。順子は毛抜きで1本ずつ抜いたものである。丹念に抜くのは、女のたしなみである。

 菖子は大学生で順子は姉、助教授はその夫である。菖子は千葉の甘藷畑で男たちに陵辱されて、何かの異変に気づいた母のところから家出して来ていたのである。
 中国文芸の秋韆の伝統にも連なる、ぶらんこの描き方である。とくに義兄の助教授の、見てはならないものがいきなり日常に露にされたときの動揺ぶりが面白い。
 男は、平均的には助教授のような存在であろう。


 この小説に出会った同じ少年時代に、私は助教授のような体験をしたことがある。
 高校の新聞に載せる私の原稿のカットを、たまたま知りあった女子美の学生に頼んだことがあった。それ以前に発表した小品を読んでもらったところ「なかなかいいじゃない」と褒めてくれ、引き受けてくれたのである。打ち合わせに、アルバイトをしているデパ-トの地下のカウンターを訪ねた。
 私は生ジュ-スかアイスクリ-ムかを、義理だてて注文した。彼女が半袖のシャツから出したとても白い腕に眼がいったとき、腋のところに薄い黒の叢が見えた。ほんの一瞬であったが、忘れられない〈風景〉となった。
 その後フランスやイタリアの夏を旅したが、たいていの女の人は腋のところなど剃っていない事実に気がついた。柔らかく毛が黒くないので、少しも生臭い感じがしないのである。
 漫画雑誌『ガロ』に不定期で連載中の荒木経惟の「新浪漫写真」には、いろいろな菖子
が被写体となって出てくる。少女っぽい顔をした女たちが米語のbeaver brushという表現があてはまるような、恥毛と腋毛を惜し気もなく見せている。モデルになる美少女がいくらでも見つかるらしいところは、現代的であるが、女の表現としては、表現の規制ということもあったにせよ、文学のほうがずっと早かったということを強調しておこうか。
 菖子の与えるフェティシズムの呪縛から解放されたのは、ピナ・バウシュ&ヴッパタール舞踊団公演の、『コンタクトホ-フ』を見てからである。「バランシンやカニングハムは、ダンサーの表情をも抽象的なものにしたが、バウシュはそうではない。彼らは観客を凝視しときに笑いかけ、ときに喚きたてる。そしてその舞踏はといえば、ほとんどが日常の仕草の延長上のものなのだ」(三浦雅士『身体の零度』講談社)という通り、この舞台では、一人の男が笑いながら腕を高く上げた女の腋の毛を1本1本つまんで観客のほうに何か話しかけようとする演技があった。淫靡なものへのこだわりがからかわれているようで、気恥ずかしさとともに痛快さも感じた一夜であった。
 ぶらんこが健康的な遊具であることも忘れてはならないだろう。何でもエロティックなものに関係づければ文学的であるというわけがない。ほんのわずかでも地上を離れて身体を浮遊させる快感は、文句なく楽しいのである。ヴィム・ヴェンダ-ス監督のベルリン・天使の詩』では、主人公の天使ダミエルは、地上に落下したら死んでしまうサ-カスのぶらんこ乗りの女マリオンに恋をして、地上の人間になったため命を失ってしまう。天使のように自由にどこへでもとびまわれたら、ぶらんこのスリルも眩暈も味わえないのである。地上の世界にやりきれなさがあるから、ぶらんこに乗ってしばし空間を浮遊するのである。サ-カスのぶらんこ乗りは、より高い場所で人びとの空間浮遊の願望を代わって実現していることになる。
 さて最後に述べれば、ぶらんこの揺れは固定性の反対ということで〈笑い〉につながる一方、ぶらんこの台は一人用であるから、〈孤独〉の象徴となるのではないか。東陽一監督『うれしはずかし物語』は、隣合わせのアパ-トに夫と妻の双方が年若き不倫の相手をもっていて、ついに窓越しに互いの情事が発覚するというイタリア喜劇のような映画。最後の場面で、二人がそれぞれぶらんこに乗ってから、「実家へ帰れと言えば帰ります」としおらしくする妻を、ぶらんこごと、会社の部長である夫が引き寄せて「俺はお前を愛していたんだ」などと言って一応の決着をつけるところがある。この映画は、〈笑い〉と〈孤独〉の象徴とみることもできるぶらんこを効果的に使った傑作ともいえるし、珍品ともいえよう。             

『此花』第11号掲載、2000年10月改稿 (写真カットは、『服部冬樹作品集』共同文化社限定300冊の内27の別冊より)

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