『メドゥーサの眼』:写真の社会学と短篇集

東京新聞』4/10夕刊「大波小波

 宇波彰氏の著作は、この一冊のみ所蔵。序論に書名の由来が述べられている。アドルノが、ベンヤミンの眼が「しばしば対象を石に変えてしまうメドゥーサの眼に似ていることを指摘している」。他方でベンヤミンは「対象をモンタージュ化し、あらゆるところからの引用によるテクストを作り出す能力を持っていたひとであったように思える」ことから、写真を媒介にして現代の問題を考えようと試みたのがこの著作であるので、「過去の時代の所産」ではあっても、ベンヤミンアドルノの「異質な断片を相互に関連づけるという方法」をみずからの方法ともしたいとのことから、この書名が選ばれたようである。なるほど深遠である。第二章「キッチュとは何か」に面白い指摘がある。
……現代芸術はこうした自己言及性・自己関与性によって成立している部分を持っているが、実はこの自己言及性によるテクストの存在は、要請されたものでありながら、しかも成立しにくいという、二重の側面を持っているのである。というのは、テクストは単に存在するだけで成立するのではなく、受容されることがなければ成立しえないというのが今日のテクスト論の主要な論点だからである。
 ところが、受容する側の役割を強調すると、たとえばパロディにおいて、パロディの対象とされているプレテクストが受容される側に理解されていないと、パロディがもはやパロディとして成り立たないことになる。しかし、今日の文化状況は、受容する側がプレテクストを理解していないケースを作り出しているように見える。どれほど古典的な作品を引用したり、歪曲したり、それをパロディの対象としてみても、受容する側がプレテクストを認識していないならば、効果を上げることができないのであり、そして現実にさまざまな領域でのプレテクストの認識が困難になっている。……( p.91 )

 拙著の短篇集『メドゥーサの眼』(龍書房)の書名は、所収の作品「メドゥーサの眼」から採っている。このメドゥーサの眼はトルコの魔除けのお守り、メドゥーサの眼(ナザール・ボンジュウ)のことである。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20120530/1338373085(『「愛知万博」の思い出:2012年5/30 』)

 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20120512/1336790475(「鴻みのる『メドゥーサの眼』書評:文藝同人誌『凱』:2012年5/12 」)