日本の一流:世界の一流

 W杯での日本のGL敗退について、清水秀彦氏の次の指摘は、大方のサッカーファンが首肯できるだろう。
…… 今回は実質的に本田圭佑のチームだったが、個人の選手に依存するチーム作りが悪いわけではない。ただ、それは選手の「質」による。アルゼンチンのメッシやポルトガルクリスティアーノ・ロナウド。現段階ではそのクラスの選手は日本にいない。
 確かに本田や香川は日本の中では一流かもしれないが、世界の一流ではない。彼らのクオリティーについて、日本中が錯覚を覚えてしまっていた。世界で通用しないという現実を突きつけられて本人たちが一番ショックだっただろう。……
 http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20140627/soc1406271140002-n1.htm
                 (「ガチンコ蹴球録」)
 スポーツの世界では、世界の一流かどうかが世界レベルの大会での結果で、ただちに判定されてしまう。永続的にダマされるということが不可能な世界といえるだろう。日本で発言力を得ている社会学者や経済学者などが、世界水準ではどの程度の実績およびその議論を支える権威があるのかは、当然ながら素人には判然としない。
 2005年に54歳の若さで亡くなったわが邦家のプルースト研究家故吉田城氏は、亡くなったとき、「ル・モンド」紙にかなり大きな死亡記事が掲載されたそうである。故吉田城氏は、『失われた時を求めて』(ガリマール社)の第1篇の第1部「コンブレー」の本文校訂をしているのである。こちらはフランス文学のことに通じていないが、紛れもなく世界の一流の研究家だったのだろう。
 さて光文社の古典新訳文庫の高遠弘美訳『失われた時を求めて』第一篇「スワン家のほうへⅠ」第一部「コンブレー」を読んでいるところである。なるほど読みやすい訳文であるとはいえ、行きつ戻りつしながらでないと、なかなか文脈的な意味が把握し難いことはたしかである。例えば、
……眠りについたあと、激しい歯痛に襲われても、それがまだ歯痛とは感じられず、あたかも二百回も続けて助けようとしている溺れかかった少女や、繰り返してばかりいるモリエールの詩句のようなものだとしか認識されていないとき、目が覚めて、英雄的行為だのリズムがいいだのといった仮の姿が、知性によって歯が痛いという感覚から取り除かれるとすれば、だれでもほっとするだろう。……(同書p.79)

失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 (光文社古典新訳文庫)

失われた時を求めて〈1〉第一篇「スワン家のほうへ1」 (光文社古典新訳文庫)