老害政治家


 野口武彦氏の「生きがいを見つけた旗本」(『江戸人の昼と夜』筑摩書房)は、寛政6(1794)年2月に実施された「学問吟味」(=人材登用試験)で、御目見得以上&以下それぞれで主席合格した、遠山金四郎景晋(かげみち)と太田直次郎(蜀山人)の人生での交錯を軸に記述しているが、推測を交えて主に追跡しているのは遠山金四郎景晋のことである。いわば「有事」の担当者としての遠山金四郎景晋の足跡・実績は以下。
◯寛政11(1799)年、御小姓組の一員の身ながら、幕命を帯びて蝦夷松前の地に赴く。
◯文化2(1805)年3月、目付役の身分で長崎に出向。このとき、長崎港沖合いにはロシア軍艦が居坐っていたのだ。通商拒否の通告をするための特命を体して派遣されたか。
◯同年8月、ふたたび松前出向。翌年8月、江戸に帰任。
◯文化5(1808)年11月、長崎方面に派遣される。同年8月にフェートン号事件が起きている。
◯文政元(1818)年、作事奉行になる。
◯文政2(1819)年、勘定奉行になる。
◯文政6(1823)年、松前蝦夷地「授与の事」ではたらく。文化4(1807)年幕府が召し上げた松前藩の封土を文政4(1821)年に返還している。そのことと関係するか。
◯文政12(1829)年、勘定奉行の職を辞し(致仕=ちし)て、隠居する。
 さて、松浦静山の『甲子夜話続篇』では「知人の話」として退隠後の遠山金四郎景晋の暮らしぶりについて「風聞」が書かれてある。

松浦静山田中泯「NHKBS時代劇『妻は、くノ一〜最終章〜』」)
 http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kunoichi2/html_kunoichi2_cast.html
(「NHKBS時代劇『妻は、くノ一〜最終章〜』」)
……勘定奉行を勤めし遠山佐衛門尉景晋は、七十を逈(はるか)に超えし人なるが、病を以て致仕(=退職)し、飄然(ひょうぜん)として処々を往来す。年来繁忙にて疎濶(そくわつ)なりし親朋智音(ちいん=親友)を訪(とぶら)ひ、頃日(ちかごろ)我が宅にも両度まで到りき。今の熱閙(ねったう=ごみごみした)世界に、かく恬退(てんたい=さっぱりした)なる人も亦稀なり。嗚呼、死に至るまで棲々(せいせい=こせこせ)とする俗吏に較ぶれば、いか許(ばかり)の高下(こうげ)にや。……
 野口武彦氏は、「幕閣内部に陰湿な政争があって、いやけがさして職を辞したりするような」事情があったかもしれないと想像しつつも、「いまは思い残すことはないと余生を楽しむ、老佐衛門尉の悠々自適ぶりが浮かんでくるようではないか」と感想を述べている。昨今日本の「棲々とする」老政治家のことを思ってしまうところである。
 なお、若きころヤンチャで後に伝説的な江戸町奉行となった「遠山の金さん」は、この金四郎の孫にあたるとのことである。