少年と老人:現代詩集『谷間の百合』を読む



 さっそく購入して読んだ。韓国語のことばが出てくる作品と、かけるという名の孫の少年との交流を扱った作品が多いと、だれでもが感想をもつだろう。目前に古希の歳が迫りつつあるこの詩人は、しかしただたんに孫の存在と成長に満足しているのではない。孫が成長するということは、みずからの寿命が少なくなるということでもある。新しいいのちの行く末に希望を託しながらも、やすやすと否定され超克されていくことは肯(がえ)んじないのだ。「狼少年」という詩では、第1聯でプロレスごっこをして、「足四の字」技でかける少年に勝利し、「心ゆくまで少年をいじめたので/わたしはよき眠りにおちた」と。ところが第2聯で、狼となったかけるが食らいついてきた、とある。
……おまえはブラッシーか
  暗闇でかけるの目があおくひかった
  復讐の
  狼の目がひかっている……
東京新聞』2/18(月)の「大波小波」では、作品には年齢を超越した「不穏な気配」が漂っていると評しているが、納まらないデモーニッシュな情念が燻っているのかもしれない。共感を覚えたところである。ほかの色彩のことばと違い、一貫して「青」ではなく「あお」と表記しているのは立ち止まらさせる。灰色をさす古代語「あお」の意味合いも含まれているのだろうか。