ネットで丸山眞男

 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51839399.html(「悔恨共同体の遺産」)
 http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/113/113_19_taguchi.pdf (「丸山眞男をめぐる最近の研究について」)
 わがブログで前に紹介している元外交官の佐藤優氏とジャーナリスト魚住昭氏の質疑応答をまとめた『ナショナリズムという迷宮』(朝日新聞社)での、(前のブログでは掲載していない)佐藤優氏の発言に共感してしまうが、なお改めて丸山眞男の著作にあたり考えてみたい。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100706/1278386129(「ねずみ男」の魅力)
 ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』においては、「メシア的時間=即時的現在における過去と未来の同時性」の中世的時間観念から「均質で空虚な時間」ヘの転換によってつくられた同時性が、ナショナリズム成立にとって決定的であったとし、それは二つの想像形式、「小説と新聞」によってわかるとしている。その背景に、佐藤氏は、大航海時代に誕生した商品と情報の流通、その必要な情報記事に「埋め草」として掲載された「法螺話」、立場を超えて水平的な議論を生んだ喫茶店の三つがあったのではないかと考察している。
 アンダーソンが分析するように国家は、「想像された共同体」としてみなされるとしても、決して抽象的な構築物ではない。佐藤氏は、ナショナリズムの病理を発症させる上で大きな役割を果たしているのは、官僚であるとしている。氏のいう「官僚」は、キャリア、ノンキュアリアを問わない一つの階級を形成している。柄谷行人氏が注目しているリカードにはあってマルクスには関心が及ばなかった「課税」の問題があり、これに携わる階級が「官僚」ということになる。つまりマルクスにおいては、国家論が欠落しているというわけだ。しかし、貨幣および資本から逃れられない社会を考察するには、マルクスの思想は避けられず、水先案内人として格好の宇野弘蔵の経済学があるということだ。
 いったいに日本人は集団主義であるというのが比較文化論の常識となっているが、佐藤氏は、疑問を提示していて、たとえばその代表的論客丸山眞男の視点を批評している。
佐藤:丸山の言説は私の腹にストンと落ちないのです。わざわざ日本には封建遺制がある、と特殊な型に入れる必要はないと思います。そういう封建制、後進性は、最先進国の最先進部分以外はどこにでもあることだと思うんです。私は丸山眞男はあまりに外国の実情を知らないのではないかと思うんです。
魚住:どういうことでしょう。
佐藤:私が外交官として国際社会を見てきた経験からすると、丸山眞男が見ているヨーロッパの思想や、個が確立している欧米というのは、彼の幻想なのではないかと思います。オリエンタリズムという概念がありますね。パレスチナアメリカ人の文学研究者・エドワード・サイードの考え方です。オリエントというのは、東洋人にとってプラスのものをマイナスというかたちにして、西欧人の頭の中でつくりあげたものに過ぎないというのです。そのオリエンタリズムの逆“オクシデンタリズム”に丸山は捕われていたのではないかと私は見ています。彼が言う自立した個、とは、日本の状況を悪として、鏡に逆に映ったのが西欧であり、そこには善きものがあるように見えたということに過ぎないように思います。

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の 、上デイジー、下チューリップ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆