現代思想といっても、やはり西洋においては聖書は思索の一つの拠点なのだろう。ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』(月曜社)には、聖書に触れた重要な箇所がある。
言葉を使うという行為が、詩的創造の行為と本質的には同じ脱主体化の体験を伴なうことだと述べてから、アガンベンはパウロの「コリントの使徒への手紙・第一」を引用している。ここでは、日本聖書協会発行の『新共同訳・新約聖書』で読んでみたい。
『だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か予言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空(くう)に向かって語ることになるからです。世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味をもたないものはありません。だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。』
ここで「外国人」=バルバロスとは、「ロゴス=言葉をそなえていないもの、本当には理解したり話したりすることのできない異国人という意味」だそうで、言語活動には本質的に「自分の言っていることがわからなくなるという」脱主体化=異国人化の危険が潜在しているということである。そのことを自覚し自分の言っていることを努めて解釈するようにしないと、話す主体は幼児化するとパウロは警告している、とアガンベンは読み解いていて感動させられる。
『兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。(「コリントの使徒への手紙・第一」)』
- 作者: ジョルジョ・アガンベン,上村忠男,広石正和
- 出版社/メーカー: 月曜社
- 発売日: 2001/09/01
- メディア: 単行本
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