故人を偲ぶ

 この月に鬼籍に入(い)った人に、今年は俳優の原田芳雄さん(7/19)、2年前に指揮者の若杉弘さん(2009年7/21)、そして「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」との遺書を残してみずから命を絶ったのが、評論家の江藤淳さん(1999年7/21)。3人の人についてその仕事を正統に論ずる資格をもたないが、それぞれ質の異なる感動を与えてくれたことは、たしかである。個人的なメモを記して黄泉の住人に敬意を表し、偲びたい。

 江藤淳さんの著作は、書庫の書棚を見れば小説と漱石研究を除いて、けっこう読んでいたことがわかった。江藤淳さんについてのわが評価は、前にこのブログに記載した記事に尽きるといえよう。
  http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100804/1280900326(「文藝同人誌の漱石特集」)

 原田芳雄さん出演の映画については、2本記憶がわりあい鮮明である。鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』(1981年、ATG映画)、横山博人監督『卍(まんじ)』(1983年、東映セントラルフィルム配給)の二つ。『ツィゴイネルワイゼン』は、パンフレットでイラストレーター・画家の林静一氏が、「この世がつまらない人への映画」と評していたが、映画そのものも「つまらない」展開ではあった。内田 百けん(門構えに月)の『サラサーテの盤』を下敷きにしたという怪異譚のところは、独特で不思議な雰囲気があった。原田芳雄の声が印象に残っている。『卍』は、レズ関係にある光子(樋口可南子)と園子(高瀬春奈)の間に園子の夫剛が割って入る、という奇妙な性愛関係を描いた作品(谷崎潤一郎原作)。原田さん、裸の美女二人と抱き合って、役者冥利だったことだろう。
 原田芳雄出演のNHKのTVドラマ『火の魚』については、昨年ブログに記載してある。原田芳雄さんは、じつに味のある演技であった。
  http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100624/1277369526(『火の魚』)
 
 若杉弘さん指揮の生演奏を聴いたのは、記憶ではたった1回のみ(※記憶違いであった)。1996年、訳詞上演『劇的オラトリオ:火刑台上のジャンヌ・ダルク』(於日生劇場)だ。ジャンヌ・ダルク=タマリ,マリアム、聖母マリア=佐藤しのぶ、マルグリット=悦田比呂子、ドミニク=高橋大海というcastingで、合唱は二期会合唱団ほか、演奏は新星日本交響楽団。バックスクリーンに炎が舞い上がる映像が映され、演奏とともに感動的な幕切れであった。この公演をマクラにジャンヌ・ダルク劇のことを、かつてわがHPに記載している。若杉弘さんが飛んでしまっているが、再録しておきたい。
◆7/21に亡くなった、若杉弘さん指揮NHK交響楽団演奏(1989年12/7)、オネゲル作曲・劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルク』の感動を思い起し、パンフレットを探しつつ故人を偲んでいたところ、前から注目していた劇団「風」が、ルーマニアの劇作家マティ・ヴィスニユックの新作『ジャンヌ・ダルク』を上演するとの広告が目に入った。タイミングよしと、衆議院議員選挙投票日前日8/29(土)に観に行った。場所は、東京東中野の劇団常設の小屋で、東中野駅からつづく商店街の道の両側に「風」のフラッグが飾られ、まるでJリーグサッカー競技場に辿り着く道のようだ。地域の支持を得ているこの劇団の存在感はたしかなものといえる。
 ルーマニア人(?)俳優3人が参加し、日本語の台詞と交錯するが、日本語の字幕が出るので、かつてのギリシア人女優の出演した、蜷川幸雄演出『オイディプス王』(築地本願寺境内公演)ほどの違和感は感じられなかった。演出は、ベトル・ヴトカレウで、人形・仮面を多用して、ときにはフランス「太陽劇団」の『堤防の上の鼓手』風、ときには「花組芝居」の泉鏡花『夜叉ケ池』風の演出を思わせ、現代演劇の多彩な手法が随所に散りばめられている。芸術監督浅野佳成氏の依頼で、日本の若い観客のために書き下ろされた作品であるとのこと、なるほどうなずける。芝居の魅力がたっぷりと盛り込まれていて、しかも、チャウシェスク独裁政権下でフランスへの亡命を余儀なくされたこの作家の、制度的権力の抑圧と真実なるものへの妥協なき希求との葛藤・相克が訴えられていて、終演後にずしりとした感動が残り、あまり観劇体験のない者にも親しみやすい舞台となっていた。
 劇の進行は、旅役者たちが演じるジャンヌ伝説という設定であるが、ジャン・ルノワール監督、アンナ・マニャーニ主演の『黄金の馬車』、カレル・ライス監督、メリル・ストリープ主演『フランス軍中尉の女』ほか映画ではお馴染みの設定で、演劇でも、平幹二朗演出・主演の『オイディプス』など印象に残っている。

 これを機会にと、手持ちのカール・ドライヤー監督『裁かるるジャンヌ』のDVDを鑑賞してみた。オスロで発見されたポジ・プリントから直接起こしたネガから作られたDVD(紀伊国屋書店)で、映像の信頼性は最もたしかであろう。ジャンヌが火刑台で焼失するまで徹底的にリアルに描かれている。1928年完成の作品であるからもとより無声映画であるが、最後まで執拗にジャンヌ(ルネ・ファルコネッティ)の、見えないものを見ようとする大きな瞳を撮ったこの映像のインパクトは測りがたい。また日本盤オリジナルの、柳下美恵のピアノ伴奏も素晴らしく、感情の抑制と昂揚が知らず導かれる。制度的権力内部に善意も悪意も怠惰も混在していても、けっきょくは「関係の絶対性」(吉本隆明)によって、一人の無垢な魂が抹殺されてしまう悲劇を、じつに冷酷に描いている。傑作である。
 かつて観劇した劇団四季浅利慶太演出、ジャン・アヌイ作『ひばり』(1978年・於日生劇場)パンフレットで、高山一彦氏が述べている。
『こんな点から見る時、ジャンヌとは、支配者の政治世界のからくりと、支配者の一角をしめて難解の神学概念で武装する聖職者の前に立たされて、その純粋な心情と勇気の故に抹殺された一少女と見なすこともできる。
 逆にいえば、術策を本質とする政治の世界と、人間自然の心情のきびしい規制を本質とした教会に抗して健気に殉じた《真の人間》を、ジャンヌ裁判の中に求めようとする作家たちの関心が、今日までの多くのジャンヌ作品を生み出してきたのではないか、と私は思う。』(2009年9/1記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町の多肉植物ミセバヤ(ヒロテレフィウム=Hylotelephium)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず 殷富門院大輔」(『小倉百人一首』) 「見せたい」ほどのピンクの花が咲くのは秋である。