伊藤若冲覚書

 http://www.nhk.or.jp/artbs/jakuchu/ (「若冲ラクルワールド」)

 この春に、NHKBSプレミアム」で、『若冲ラクルワールド・全4回』が連続放送され、めずらしく全回通して視聴した。ナレーションが中谷美紀さん、ナビゲーターが嵐・大野智クン。大野智クンは意外な感じがしたが、みずから絵を描き、フィギュアも制作するそうで、語彙の乏しさはともかく、前から若冲が好きだったとのことで、絵に接した感動を率直に出していて、この人選は間違っていなかったと思った。『芸術新潮・創刊40周年記念特別号・国宝』(1990年1月・新潮社)の、「国宝アンケート」で、若冲の「西福寺襖絵・仙人掌群鶏図」を他の9点とともに「新国宝」として推薦している、美術史家辻惟雄氏との対談などでも、雑音を入れず好印象。


 その辻惟雄氏も著者の一人の『日本美術絵画全集・第23巻 若冲蕭白』(集英社)、『芸術新潮・異能の画家伊藤若冲(解説=狩野博幸)』(2000年11月・新潮社)、『芸術新潮・あっぱれ科学が花開かせた江戸の芸術』(1992年10月・新潮社)などを参照しながら、TV放送の印象的だった情報内容をかんたんに整理しておきたい。なお現物は、大規模展覧会は基本的に行かない主義なので未見である。
【名前と出生】正徳6(1716)年京都錦小路の青物の長男として生まれた。40歳の時、家督を弟に譲って隠居し画業に専念。若冲は、「大盈(たいえい)ハ沖(むな)しきが若(ごと)キモ其ノ用ハ窮(きわま)ラズ」(『老子』)からとられた号で、洛南石峰寺の墓の銘には、「斗米庵若沖居士墓」とある。「冲」は、「沖」の俗字である。「伊藤家過去帳」には、87歳で没と記されるが、昔は還暦後改元ごとに一年加算したことから、寛政12(1800年)没なら85歳で没が正しい。
(右端:京都信行寺・花卉(かき)天井画の「薔薇」)

動植綵絵(さいえ)】若冲がおよそ10年かけて描いた30幅の作品を、相国寺に寄進、明治時代の廃仏毀釈でダメージを受けた同寺が、一万円の下付金と引き換えに宮内省に献上し、散逸することなく今日に至っている(宮内庁収蔵)。
【時代の評価】番組では、若冲の「千歳具眼の徒を俟(ま)つ」のことばを強調していたが、相国寺住職の大典および、同寺塔頭に住んでいた売茶翁ら当時の著名な京都文化人に愛されていて、一介の町絵師の身で鹿苑寺大書院の障壁画を依頼されたのも、大典の強力な推薦があったから。18世紀後半の京都においては、「奇なるもの」が評価される雰囲気が醸成されていたらしい。安永4年(若冲60歳)の『平安人物誌』の「画家の部」では、「応挙・若冲・大雅・蕪村」の順で掲載されていて、若冲の作品を求めるファンも多かったそうである。孤高の画家とみなしては、事実に反しよう。それにしても「月夜芭蕉図」に描かれている満月の光が大書院の五部屋を照らしている、鹿苑寺大書院の水墨画で描かれた障壁画群の静かな美しさには眼を見張った。
【技法】「新しいテクニックを自家薬籠中のものとして堂々と描いていく。だから滅びないんでしょう」と、狩野博幸氏は、若冲を評している。番組では、「老松白鳳図」の羽の色が金色に見える技法(白の表地の裏に、黄土を塗り、黒い肌裏の紙を付ける)、『動植綵絵』の「群鶏図」では、鶏たちが遠近感なく動いているように見える技法(今日の望遠レンズで撮るような描法)、アメリカ人コレクター所蔵の「鳥獣花木図屏風」における枡目描き(朝鮮王朝時代の紙織画との関連。※狩野氏は、前掲『芸術新潮』では西陣織の下絵との関連説に注目)、「菊花図」の筋目描き(中国の宣紙を使い、墨の粒子を染み込ませる)、「乗興舟(じょうきょうしゅう)」の版画(石摺り=正面摺り。拓本と同じ形式で作られたモノトーンの版画)、「石灯籠図屏風」の水墨点描画ほか、素人でも驚くことが多かった。
【思想】若冲の動植物を対象にした作品には、「草木国土悉皆成仏」の天台本覚思想が底にある。
【好奇心】『動植綵絵』の「群魚図」のルリハタの青色は、長崎経由で入手したプロイセン王国のプルシアンブルーが使用されている。『動植綵絵』の「貝甲図」のめずらしい貝の絵は、大坂の本草学者にしてコレクターの木村蒹葭堂(けんかどう)の貝類標本を観ていたからだろう。仙人掌は、大坂の薬種商吉野寛斎の植物園で観ていたのだろう。旺盛な好奇心には感心させられる。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町で、ランタナの花にとまるモンシロチョウ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆