哲学と翻訳

 すでに廃刊している『大航海』07年67号「特集・中世哲学復興」(新書館)収録の「対談」、神崎繁氏と三浦雅士氏の「翻訳が創造したもの」は、素人が読むと瞠目の応答である。とりわけ、キリスト教の三位一体説の教義は、「ひとつのスプスタンティア(実体のラテン語ギリシア語ではウーシア)に三つのペルソナ(神・イエス聖霊の三つの位格のラテン語ギリシア語ではヒュポスタシス)というかたちで公認されるわけです。それはもうアリストテレス哲学なしにできないこと」との指摘はなるほどと思った。
 アダム・スミスからマルクスに継承された「労働価値説」は、その思想史的淵源は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』にあるのだそうである。アリストテレスにとって、靴と農産物のように比較の共通性をもたないものの間で「交換的正義」を実現するための基準として、「クレイア」を考えた。これは、「必要」という意味である。生産物を必要としている者、その必要さに対処できる技術(テクネー)をもった者との間に交換が成立するとしたのであって、労働の成果というとらえ方ではなかった。ところが中世の時代においては、「貧しさ」と「労働」など〈卑俗〉とされてきたものに価値が認められ、『ニコマコス倫理学』の「クレイア(必要)」は「オプス(成果)」というラテン語で訳された。この「オプス」を労働の成果と解すれば「労働価値説」になるわけである。
 ところがマルクスは、この「クレイア」をちゃんと「ベデュルフニス(必要)=Bedürfnis」と訳している。「マルクスアリストテレスの『ニコマコス倫理学』をちゃんとギリシャ語で読んでおり、古典派の解釈を介すことなく自分の翻訳でやっているんですね」ということだ。「ドイツでギリシャ語をじかに読み始めた世代」のヘーゲルも当然『ニコマコス倫理学』をちゃんと読んでいるから、いわゆる「欲求の体系」としての市民社会という語も、「必要の体系」と理解すべきではないかと述べている。驚いた。ある段階から市民社会は、中世共同体的「必要の体系」から「欲求の体系」に変貌してしまったというわけだ。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町の公園に実った枇杷の木。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆