「signalling」としての「芥川賞」

 本日「週刊読書人」2/18号入手。第1&2面の、小谷野敦氏へのインタビュー記事『「芥川賞」について』を読みたいため、直接発行元より取り寄せたもの。
 小谷野さんの小説『母子寮前』(未読)が、第14回「芥川賞」候補となり、周知のように選ばれなかった。このことをめぐって所感を述べた記事である。氏の、「私小説こそ純文学の正統である」との持論を根底に、昨今の憂うべき文学状況を批評している。受賞作も含めてどれも読んでいないので、個々の作品批評について論評できる立場ではないが、小谷野敦氏は、当代第一の小説の読み手と思っているので、的を外していないはずと信用して読んだ。(それはそれで才能であるにしても)所詮は通俗小説作家でしかない選考委員によって選ばれる「芥川賞」受賞作品に、どんな価値があるのか? それはあくまでもシグナリング(signalling)としての意味であろう。
 候補発表後の周囲からの反響を訊かれて、
『結構ありましたね。「おめでとうございます」とか(笑)。候補に挙がっただけなんですけれど、前にサントリー学芸賞を受賞した時よりもすごかった。「おめでとう」ってメールがたくさん来たし、近所の図書館に行ったら図書館長から挨拶されました。私がコピーを取っていると、急に声をかけられて、「先生のご本はいつも拝読しております」と。本当のことかどうかは知りませんが、館長には、その時初めて会いました。』
 これってアリ?ではない、これってNHK紅白歌合戦」出場の発表ではないのか。アイドルもロック歌手も(稀な例外を除いて)「紅白」歌手となって、はじめて〈ホンモノ〉の歌手となるのだ。つまりシグナリングということだ。
 だがさらに、受賞を逃した「芥川賞」候補作家と、「芥川賞」作家とでは、その社会的扱われ方において天地の差がある。作品そのものよりも、二世政治家と同じく「名家」の出自が騒がれたり、「結局、賞などというものは人脈と思惑で授与されるもの」と、達観しきれないところがある。今後の執筆予定を尋ねられて、小谷野さん、「そのうち、短編を集めて自費出版するぐらいですかね」と応えて、
『どのみち、もう候補にはならないでしょうね。そういう人質作戦には、決して屈してはいけないんです。しかしやっぱり受賞すると売れるんですね。それはつらい。』
 いっぽうで比較文学者として仕事をしている人の率直な発言で、感動した。

私小説のすすめ (平凡社新書)

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⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のクリスマス・ローズ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆