久米正雄の「受験生の手記」(岩波文庫『久米正雄作品集』)に「多寡を括る」の誤用を発見。一高受験に2度失敗し、恋する女も一高入試合格も弟に奪いとられて、地方の湖に入水自殺するまでの一人の受験生の残した手記を、幾年かを経て弟の友人が「原文に若干の修正を施して、兎にも角にも一編の読み物にした」という作品構成になっているが、語の用法はむろん作者の責任である。
二、三分経った。私はあくまで弟が、匙を投げて、「この次までに考えてみましょう。」とか何とか云うだろうと多寡を括って待った。五分間ほど経った。私はもうさりげなく、そこにあったユニオンの四を、見るともなく翻(かえ)していた。すると突然弟は鉛筆を忙(せわ)しく動かし始めた。そして輝いた眼で静かに私の方を振り向いた。 (p.131)
正しくは、「高を括る」である。
亡き葉山修平氏も作品中「多寡を括る」と好んで(?)書いていた。次のサイトに、「『多寡が~のくせに』、『多寡を括る』、などの用法は古くから文章のプロの文中にも散見しますが、これは『高が』『高を括る』の誤用ですので、みなさんはくれぐれも真似をしないように」とあり、なるほど例外的な誤用ではなかったのかと納得。