中西万葉学から学んでいる

 

 

 中西進氏の著作には若いころから親しんできた。かつてのブログ記事を再録しておきたい。亡き作家の葉山修平さんは大学院で同期で、中西進氏を「優秀な人だった」と評していたのを思い出す。

【「あまちゃん」の「あま」2013年8/16記】

 NHK朝ドラ『あまちゃん』の「あま」は、ドラマ中の北三陸市の海に潜ってウニを採る海女のことであろう。ヒロイン天野アキ(能年玲奈)を中心に、祖母天野夏(宮本信子)、母天野春子(小泉今日子)が絡んで面白い展開である。それはそれとして、あまちゃんの「海女」と「天野」の「天(あま)」、二つのことばについて先人の考察を見てみよう。
 中西進編『万葉集の言葉と心』(毎日新聞社)所収の、亡き国語学者大野晋「『万葉集』の言葉について」の論考の後半に「天(あま)」と「海女(あま)」が出てくる。
 大野氏は、「いにしへのことは知らぬをわれ見ても久しくなりぬ天香具山」の歌を紹介して、『万葉集』では、「天(あま)つ〜」と、『古事記』『日本書紀』では、「天(あめ)の〜」と「天」の言葉が非常にたくさん出てくることを述べている。天とは、クニのことで、田もあるし川もある、そして岩のようなもので、しっかりしたものからできているんだというアルタイの信仰を共通にもっているとしている。なお香具山のカグとは、火(燠=おき)の意で、だから天香具山とは天の火の山であったということになる。
 さて「海辺で魚を取り、あるいはアワビを取っている、貝を取っている、海藻を取っている海女」と「天上の国をあらわす天(あま)」とは、実は古い時代にはアクセントも、ぴったり一致している。「海女とや見らん旅行くわれを」との『万葉集』の歌は、自分は海女と見間違えられるのではないかとおそれるということであるから、海女=海上生活者が低く見られていたと考えられる。
……天(あま)をよく調べてみると「天つ袖」といういい方がある。天つ袖というのは、天人の袖ということです。美しい女の袖ということです。ところが本来は水上で生活する人が『アマ」だった。そして『アマ」というのは、海の向こうの常世(※とこよ)の国を意味したのではないか。海の向こうのアマの国、海の奥のほうに神が支配しているところがある。それらをアマといっていたのだが、異なる支配者が入ってきて、支配者のまつる神のいるところを「アマ」であると考えるようになって、海の向こうにあったアマの位置が変わってしまった。つまり、次に入ってきた支配者の世界観では、その支配者のいるところ、あるいは立派なもののあるところは天上であるというふうに考えたがゆえに、本来、海の向こうにあると考えられていた「アマ」が、そういうあとからきた人たちの神話的な発想に従って、「アマ」は水平に遠いところだったのが垂直に遠い天上に移っていったのではないか。……(同書pp.66~67)
万葉集』で「天少女(あまつおとめ)」という場合、天上の踊りを踊る人と海上生活者の若い女の人との両方の意味であることからも、「海上のはるかかなたにあったアマが、のちに入ってきた説話によって天上に移っていったということを、日本の説話、神話の歴史は、そういう移りゆきを経験したのではないか」とのことである。
 このじぇじぇじぇ!の「昭和の仮説」に基づくならば、「あまちゃん」の姓が「天野」とあるのもなかなか含蓄があることになる。
 http://www1.nhk.or.jp/amachan/index.html(「NHKあまちゃん』」)