NHKの大河ドラマ『おんな城主直虎』の14話・15話は、井伊谷(いいのや)の借金に苦しむ百姓たちが、城主井伊家を飛び越え今川家(当主・氏真)に徳政令の発布を求めて直訴する事件をめぐる、直虎の城主としての初仕事を描いている。
http://www.nhk.or.jp/naotora/(「NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』」)
徳政一揆および一揆全般に関して、呉座勇一国際日本文化研究センター客員准教授の『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)の考察を思い起こした。ブログ(2016年1/2)の記事を再録しておきたい。
◆内容としては、中世の一揆をメインに扱っているが、「一揆の代表は江戸時代の百姓一揆だと思っている人が少なくないが、実のところ百姓一揆は本来の一揆が変質した姿でしかない。中世の一揆がスタンダードなのである」との認識が前提にあるからである。三部構成・八つの章から成っている。第Ⅰ部の第1〜2章では、一揆に関する基本的事項を解説している。
……島原・天草一揆の鎮圧により幕藩体制が確立し、平和の時代が訪れると、百姓たちは多くの被害を出す「一揆」=武装蜂起という選択肢を捨てた。武器を使わない抗議活動に転換した。これが百姓一揆である。百姓一揆が「一揆」を自称しないという一見すると奇妙な現象は、百姓たちのこうした〝非武装路線〟の結果、生まれたものである。……(p.46)
中世においては、一揆は社会的に認められ、一揆を結ぶ者たちは「一揆」を自称したのである。そして、中世の一揆は多種多様である。百姓が結成する一揆で有名なタイプは、「荘家(しょうけ)の一揆」で、荘園単位で一揆を結び、「荘園領主に対して年貢の減額や代官の更迭などを請願する一揆」である。「土一揆」は、「酒屋や土倉などの金融業者を襲撃して幕府に徳政令を出させることで借金をチャラにする」というタイプの一揆。徳政一揆を指すことが多いが、それ以外の場合もあった。百姓だけの一揆ではなく、武士や牢人なども参加していた。
武士の一揆は、「国人(こくじん)一揆」(研究者の造語)。参加者の身分による分類のほかに、日蓮宗の信者による法華一揆、新義真言宗信者の根来一揆、そして最も有名な一向宗門徒による一向一揆など、宗教一揆がある。
江戸時代においては、「一揆」の表現は少なく、「百姓が大勢集まって徒党を組み、自分たちの要望を強引に押し通そうとすること」を幕府は「強訴」と定義し、「よろしからざること」としている。中世においては、強訴といえば、大衆(だいじゅ:僧侶集団)の強訴が一般的であった。
……どうして延暦寺などの大寺社は、直接武力に訴えるのではなく、強訴などという回りくどい手法をとるのだろうか。もちろん、まともに戦っても勝ち目がないということもあるが、より根本的には、朝廷と大寺社の相互依存関係が理由として挙げられるだろう。延暦寺や興福寺、園城寺など強訴を頻繁に行う寺院は官寺、すなわち国立機関なのである。これらの寺院は国家の繁栄を祈り、その見返りに朝廷から経済的給付を受けていた。
しかし大寺社の持つ経済的特権は、地方行政官である国司や他の寺社の利権と競合することがあり、大寺社は自身の利権を維持拡大するために彼らの妨害を排除しようとする。その時に用いられる手法の一つが強訴であった。朝廷の力で敵対勢力にダメージを与えようとするのである。……(p.60)
中世の「荘家の一揆」も江戸時代の百姓一揆と同じく、「寺社の強訴と共通点を持っている」。強訴は、集団で押しかけること=「連参」「列(烈)参」が基本的スタイルで、「荘家の一揆」の場合、寺社の強訴と違って武装はしないが、要求が貫徹しないときは「逃散(ちょうさん)」を実行した。年貢の源泉となる農作業放棄の行為なので、暴動というよりも労働争議に近いだろう。
そもそも「一揆」という言葉の語源は、「はかる」すなわち計量・計測の意味で、派生して「教え・方法・行為」の意味を含むようになり、日本の平安時代では、単に「同一である」との意味で用いられた。鎌倉時代に入り、「心を一つにして」「一致団結して」の意味で、動詞的用法で用いられるようになったのである。
第Ⅱ部第3〜4章では、当時の人々の「一揆」理解について論じている。一揆の訴えがなぜ正義なのかについて、建久9(1198)年の興福寺の衆徒たちの強訴の事例が参考となる。和泉国の興福寺領荘園に対し和泉国司が重税を課したため、国司の処罰を求めて衆徒たちが上洛した。朝廷は、法廷で言い分を述べるように命じたが、興福寺側はこれを拒否した。「満寺」(興福寺全体)が結束し、老いも若きも、賢者も愚者も、みな「同心」して憂い怒っているのであるから、正義は興福寺側にあると主張した。
……前掲の興福寺牒状に見える「同心」の論理がそうであったように、「一味同心」に基づく訴えは合理的な判断を超越した絶対の正義であり、その主張が正しいか否かを論理的に検討することすら許されなかった。土一揆が「借りた物は返す」という一般常識を無視することができるのも、一揆の〝正義〟ゆえであった。……(p.77)
地位や身分の上下で人々が分断されている中世という時代に、参加者全員が対等な立場で主体的に意見を表明し議論を尽くした上での結論であるから尊重するべきであるとの強い信念が、「一同に嘆き申す」「一味同心に訴え申す」という行為=強訴の正当性を支えていたのである。一味同心して何かを決定した場合、多く起請文という文書を作成するが、これは一般的には、遵守すべき誓約内容と、もし誓いを破ったら神仏の罰を受けてもかまわないとの自己呪詛の文言を記した「神文(しんもん)」から構成される。
……そもそも仏教の教義には、仏が仏敵に罰を下すという内容は含まれていない。「日本国仏神の御罰」によって実効性を担保しようとする「一味同心」観念が仏教本来の教えと無関係であることは明白である。……(p.93)
徳政一揆の対象となった土倉や酒屋は、主に公家・武家などの大口の顧客を相手にしていて、小口融資の場合でも田舎の百姓に融資することはなかった。したがって「都市高利貸資本の農村浸食」に徳政一揆の原因を求める、従来のマルクス主義歴史学の考え方に沿った説明は、説得力を欠いている。徳政一揆が発生した時代は、また飢饉が発生していた時代でもあり、そのことから、凶作・飢饉こそ徳政一揆発生の主因と考えることができるのである。
中世後期に一揆が全盛期を迎えたのは、災害と戦争の絶えない時代であったからであり、非常時に対応するための有効なシステムとして、一揆という結合形態は社会全体に広まっていったのである。
第5〜6章では、「一味神水」という一揆の儀式をめぐって。「一味神水」の神秘性を過大評価し、宗教的な説明に傾きすぎている70年代以降の一揆研究を批判的に再検討している。
「一味神水」の儀式では、起請文を燃やして灰にし、それを神水に混ぜて飲むという行為を求めているが、神罰への恐怖という精神的呪縛によって誓約内容を遵守させるための文書が起請文であるから、わざわざこのような儀式を必要としたのかが、問題なのである。
……先に見たように、中世人はみんながみんな、神罰を心の底から信じていたわけではない。とはいえ、神水を飲むという行為にはそれなりのリスクが伴うと認識されていたはずで、だからこそ「身の毛がよだつ」のである。逆に言えば、神水を飲むことは、自己の主張の〝正義〟に自信があることを見せつける宣伝効果を持っているのである。よって、荘園領主に一味神水を行ったと告げるのは、自分たちの覚悟のほどを伝えるためと考えられる。……(pp.132~133)
徳政一揆に関して、徳政一揆が土倉の傭兵や幕府軍と戦うのは、革命を起こすためではなく、軍事的勝利を得ることで幕府への訴訟において優位に立つためである。百姓一揆が幕府や藩に対して訴状を提出する一方で、米屋や村役人・豪農宅を打ちこわして回るというスタイルが一般的なと同種である。実力行使がゼロの平和的な訴えということではなかった。幕府に守護の更迭を要求する形をとる、反守護の国人一揆であっても、武力行使とセットになった訴願、幕府からの有利な裁定を勝ち取るために原告が被告を直接武力でたたく特殊な「訴訟」という意味で、徳政一揆とも共通しているのである。
第Ⅲ部第7章では、一揆の本質が、人と人とをつなぐ紐帯にあることを説いている。二人だけの一揆というのもあったのだ。仙台藩伊達家の文書には、余目三河守(あまるめみかわのかみ)と伊達政宗との一揆同心の契状があるそうである。これは二人だけの一揆である。大規模な一揆の場合にあっても「一味同心」は、強訴するために必要なメンタリティであって、「一味神水」の儀式によって結ばれた参加者全員が異常な興奮状態にあったとは考えられない。
……まして、全ての一揆が「強訴」を目的としているわけでない以上、もっとノーマルでソフトな「一味同心」があっても不思議ではない。複数の人間が心を一つにして共に行動することに一揆の本質があるとしたら、二人でも一揆は十分に成立し得る。伊達政宗一揆契状に見えるように、「大きな問題でも小さな問題でもお互いに助け合う」という絆こそが「一味同心」なのであり、とりたてて宗教的・呪術的な説明をする必要はないだろう。……(p.177)
第8章では、「契約」という側面から一揆の実像に迫ろうと試みている。「親子契約」または「父子契約」とは、実の親子ではない二人の人間が擬制的に「親」と「子」の関係を取り結ぶことを意味する。愛情よりも利害の一致によって結ばれるビジネスライクな契約であり、また契約義務違反があれば容易に関係の解消がなされるという二点で、養子の場合とは区別される。同じく擬制的に「兄弟」となることを定めたのが「兄弟契約」である。「親子契約」より水平的で、どちらが兄でどちらが弟との決まりは定めなかった。当初は、「親子契約」と同じで財産相続との関係で結ばれていたが、その後、相続とは関わりなく相互協力のために結ばれるようになった。
……一揆の本質は、呪術的な〈神への誓約〉ではなく現実的な〈人と人との契約〉であるというところに存在する。だとすれば、一揆の結合原理を、一揆契約と兄弟契約の類似性という事実を出発点にして、考察する必要があるだろう。……(p.216)
一揆の結成とは、旧来の「縁」をいったん切断した上で新たな「縁」を生み出す行為と把握すべきとすれば、「新しい中世」とも評される現代において、伝統的な共同性の復活ではなく、例えばSNSなどの現代メディアの利用によってどういう「縁」を生み出すのかという課題を考える上で、一揆からヒントが得られるのではないかというのが、終章の問題提起である。
- 作者: 呉座勇一
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