糟糠の妻・無名鬼の妻


 山口弘子著『無名鬼の妻』(作品社)は、三島由紀夫の後を追うように自刃した評論家・歌人村上一郎の人生について、妻であったえみ子さん(現在93歳)からの聞き取りを基に、えみ子さんとともに短歌会「りとむ」の同人である著者が、妻えみ子さんとの関わりを中心に書いている。昔村上一郎の個人誌(後に桶谷秀昭氏が編集に参加)『無名鬼』を創刊号から購読し、この本でも触れている『日本読書新聞』掲載の三島由紀夫との対談も含め、村上一郎の主要著作はだいたい読んでいたので、早速、六・「人形」、八・『「無名鬼」』、九・「三島事件」のところを読んだ。
かつていちばん愛読した『世界の思想家たち』(現代教養文庫)は見つからない。⦆
『無名鬼』は巻頭に短歌が掲載されていて、文学・思想関係の同人誌としては異色な印象を与えていた。村上一郎が感動して『無名鬼』に即座にその作品を発表するよう誘った契機となったのが、『短歌』掲載の「鳥髪三十首」、とくに次の歌であったとのこと。
 行きて負ふかなしみぞここ鳥髪に雪降るさらば明日も降りなむ
……奥出雲の船通山(※せんつうざん)は古来より鳥上山、鳥髪山とも呼ばれている。古事記において、天上から追放され、その麓に降りたスサノオが八岐大蛇を退治し、その尾から天叢雲剣(※あめのむらくものつるぎ)を天照大神に献上したという。古事記スサノオの哀しみを引き寄せながら、生きてゆくことの哀しみが、今日も明日も鳥髪山に降る雪のように連綿と続くことを格調高く歌ったこの歌に、一郎は深く感動した。スサノオの哀しみに、一郎は安保闘争に敗れた者たちの悲哀を重ねたのである。……( p.140 )
「この頃の山中さんは謙遜な方でした」(えみ子さんの批評)との山中智恵子の歌とともに、感銘を受けた箇所である。「魂魄」に突き動かされ「社稷(しゃしょく)」を憂えた、この文人・思想家の思索と表現の核のようなものが窺えるのである。ただ今日から見れば、安保闘争は敗れるべくして敗れたのであり、主張の正当性はどうだったのか、総括が必要だろう。
 村上一郎の躁鬱症について、その病状の深刻さをはじめて知った。人生と表現をそれですべて説明することは許されないが、妻えみ子さんの苦労と併せて、村上一郎を論じる上であまりにも大きな事実であった。
……一郎は躁のときは筆が早くなる。一九六九年(昭和四十四年)に出た『浪漫者の魂魄』や翌年の『北一輝論』の頃から、えみ子は危惧を隠して夫を見守っていた。躁になると、やたらに海軍について語るのと、筆が滑りやすくなるのが軌を一にするように思われたという。夫の書くものにとやかく言ったことは一度もなかったが、信ずる大義に命を賭け、死を怖れぬ生き方に夫が引き寄せられていることを感じて不安だった。鬱の時は自殺願望が起こりやすいことは、何度も注意されていた。……(p.157 )
 村上家に出入りし『無名鬼』の校正・発送などを手伝った青年たちのひとり、岡田哲也さんは、東大を中退し、1971年に帰郷、以来鹿児島県出水市で暮らし、「地元の文化人として幅広く活躍し、西日本新聞に文芸評論を連載しているが、本業は詩人である」。いまでもえみ子さんに著作が届くそうである。
 http://blog.goo.ne.jp/rk_kobayashi/e/e790d411c0dfbc5a4518db36894f714f
   (「鹿児島ゆかりの文芸人 詩人岡田哲也さん」)
 http://karansha.exblog.jp/14519651/
   (「『憂しと見し世ぞ』出版祝賀会」)
   http://jfn.josuikai.net/nendokai/decclub/sinronbun/2005_Mokuji/Kyoumonsousyo/dai34gou/1hasi_to_SenzenSengoBungaku.htm
   (「一橋と昭和戦前・戦後の文学:桶谷秀昭」)
 なお村上一郎一橋大学の出身で、たんにパトスの人ではなく、ロゴスの人の側面も併せもっており、その著作からアダム・スミス研究の学的伝統について教えられ、水田洋氏のスミスの市民社会論を知ることになったのは、その影響である。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20130926/1380172885
   (「思想史の方法:2013年9/26 」)

無名鬼の妻

無名鬼の妻