(表紙油絵:廣戸絵美)
北海道考古学会会長大島直行氏の『月と蛇と縄文人』(寿郎社)は、縄文人の土器・土偶などのものづくりの原理には、不死と再生のシンボリズムが根底にあるとし、月がそのシンボルであり、月の性格を分有するものとして蛇があると考察している。紋様の縄文には、縄の撚りによる表現の綾つまりレトリックがあるのだそうである。
……蛇の不死や再生能力に気づいていた縄文人は きつく絡み合うオスとメスの交合の様子を「縄」で模倣し、土器の表面に回転させたり押しつけたりして、「縄文」として表現したのです。縄文土器に長きにわたって「縄文」が描かれ続けたのは、縄文人にとって不死や再生が重要な観念として確立されていたからでしょう。それをシンボライズするものとして選ばれたのが蛇だったのです。そして、縄の撚りによってレトリックされたのです。……(p.54)
縄文人は、「死をイメージする晦日月から新月、そして二日月に至る三日間の闇の世界」を、光のあたらない「ワキ」になぞらえて、「その恐ろしい闇を逃れるために腕を上げて光を求めたのであろう」と、ドイツの日本学者ネリー・ナウマンの研究に追従して、縄文土偶のワキの甘さの意味を述べている。
……ナウマンの縄文土器に描かれたワキにまつわる造形についての分析から見えてきたのが、土偶のワキの甘さという特徴なのです。縄文人は再生を乞い願う心性を土偶の造形に託したわけですが、そこには月のシンボリズムが強く作用して、月の光をワキの解放によって表現し、けっして死をイメージする闇を作り出さなかったのだと解釈できます。……(p.92)
土偶には、月の諸相とともに、月と同じ性格(生理周期)を持った「女性や月の水を運ぶ蛇や蛙など、月に関係する象徴が散りばめられ」、その図像表現には一定の約束事に基づいたレトリックが駆使されているのである。
さらに面白いのが、第2Ⅱ章第三節の「石斧の色はなぜ緑なのか」。縄文人の矢じりの形には、三角形と柳葉形と二つのタイプがあるそうである。
……「月のシンボリズム」がここにおいても機能しているとすれば、おそらく、矢じりのうち三角形タイプは鮫の歯がシンボライズされたもので、なかご・柳葉タイプは猪や熊、犬、狐、さらには狼の犬歯が月に見立てられていると思います。鮫の歯は、交換歯列によって生涯失われることがなく、死と再生を繰り返す月の運行と関連づけられ、動物の犬歯は三日月の象徴と考えられるからです。……(p.108)
※なかご(茎):刀身の握る部分で、柄(つか)の中に入って隠れてしまう部分。
さて、旧石器時代の磨製石斧は刃先だけを磨くのに対し、縄文時代には全体を磨いた斧が登場、この石斧に緑の石が使われているという。ヨーロッパでも岩石名は不明ながら、緑の石が斧に使われていたらしい。
……翻って、縄文時代の磨製石斧を見てみると、縄文時代の磨製石斧に使われる石材は、一般的に緑色片岩や緑色泥岩、緑色凝灰岩、蛇紋岩、カンラン岩など、緑色系の石が使われています。これらの石は、乾燥した状態ではくすんだ色ですが、水に濡らすと鮮やかな緑色になるものが少なくありません。……(p.125)
……縄文人にとっての「緑」といえば、もう一つの大事な石があります。そう、ヒスイ(翡翠)です。ヒスイは本当の名前を「硬石」といいます。産地は全国にいくつかありますが、縄文人が好んだのはもっぱら新潟県産です。新潟といっても、産出する場所は限られていて、糸魚川市を流れる姫川や青海川の流域に集中しています。
縄文人がヒスイに目を付けたのは七〇〇〇年ほど前からで、それ以降にヒスイは全国に広がっていきます。ヒスイの色は、白や灰、青、桃、紫、黒などさまざまあるようですが、縄文人が好んだのは何といっても「緑」でした。……(p.127)
なぜ緑の石を材料として使用したのだろうか。そこにもシンボリズムがあると、大島直行氏は考えるわけである。
……(※ミルチャ・エリアーデとともに)私も、縄文人の作る石斧は、単なる道具ではないと考えるようになりました。緑の石が、たまたま手に入りやすく、斧への加工が容易な石材だからという理由だけで選ばれたとは思えないのです。おそらく彼らが、とくに東日本の落葉樹林帯で暮らした縄文人たちは、秋になり木々の緑が失われて、その木が春になるとまた蘇る姿を、「死と再生」のシンボライズとしてイメージしたのでしょう。
住居や丸木舟のために聖なる木々を切り倒すとき、彼らは緑の斧を使うことで折り合いをつけようとしたのではないでしょうか。つまり緑の石斧は、木々の再生のシンボリズムだと思います。もちろん、木々の緑は、月の水によってもたらされます。
後の古墳時代、全国的に、被葬者の石室には緑色片岩が使われることが少なくありませんでした。おそらくこれも単なる偶然ではありません。……(pp.126~127)
なるほど面白い。しかし縄文時代そのものについての新しい見解も出ている。知的眩暈を感じる。
緑色といえば、わが所蔵の3冊の本はそれぞれすてきである。澁澤龍彦『毒薬の手帖』(桃源社1963年初版)、種村季弘『吸血鬼幻想』(薔薇十字社1970年初版)、『トマス・ド・クインシー著作集Ⅰ』(国書刊行会:1995年初版)の3冊である。本の装幀をすべて緑色で統一している『毒薬の手帖』の序文で、澁澤龍彦は、オスカー・ワイルドの『ペン、鉛筆、毒薬(※3P)』から引用している。
……「彼(※トマス・グリフィスス・ウェインライト)は緑色に対する奇妙な愛を抱いていたが、けだし緑色は、個人にあってはつねに精妙な芸術的稟質のしるしであり、また国民においては、よし道徳の頽廃ではなくとも、一種の道徳的弛緩を示すものといわれている。」……