『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)を読む(Ⅲ)

 第五章『「世界」の終わり—現法涅槃とそこへの道』は、次章で考察される涅槃の領域と区別される、我々の生きているこの現実世界とは何であるのかについて説明している。とりあえずいえることは、凡夫の六根六境(眼・耳・鼻・舌・身・意と色・声・香・味・触・法)の形成する認知の全体が、ゴータマ・ブッダにとっての「世界」である。
 この「世界」をさらに詳しく捉えようとすれば、「分別の相」と(著者が)訳す「papañca」の言葉の理解が大切。英語の「expansion、diffuseness、manifoldedness」のニュアンスの言葉で、「拡大・拡散する」の原義から、分化や多様化といった事態も示す。「本来は分別されていないものを分別を与えて複雑化するのであるから、それは妄想、幻想、迷執といった含みも持つ」。「戯論(けろん)」と訳されるように「papañca」は、仏教用語としては悪い意味で使われる。『渇愛・煩悩・我執に基づいてイメージを形成し、それによって現象を分別して多様化・複雑化させ、「物語」を形成する作用』が、「papañca」である。『このpapañcaの滅尽ないし寂滅が、「世界の終わり」であり、また「現法涅槃」の境地である』。
 この現法涅槃へと導く実践が、気づきの実践である。
……即ち、歩いている時には「歩いている」、立っている時には「立っている」などと、いかなる時でも自分の行為に意識を行き渡らせて(mindfullness)、そこに貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と気づいている。そのような意識のあり方を日常化することで、慣れ親しんだ盲目的で習慣的な行為(=煩悩の流れ)を、「堰き止める」ことが、気づきの実践になるわけである。
 このような気づきの実践を行って、内外の認知において生成し消滅する現象を観察し続けることで、修行者は無常・苦・無我の三相を洞察し、ゆえにそうした苦なる現象を厭離(厭い離れて)、離貪(貪りを離れて)、執着するということがなくなる。……(pp.126~127)
 第六章「仏教思想のゼロポイント—解脱・涅槃とは何か」で、表題の「ゼロポイント」の意味が明らかになる。それは、「悟り」とは何かという問題に帰着するのである。悟り=「如実知見:五蘊(ごうん)の生成と消滅を如実に知見すること」して、現象の無常・苦・無我を悟ること。この如実知見は、概念的思考や日常意識を、禅定の特定の集中力によって超えたところに認知されるもので、そこに生ずる智慧というのは、思考の結果ではあり得ないのである。
……さて、ゴータマ・ブッダの仏教における「悟り」が、推論や思考の進行の結果として徐々に到達される概念的分析知ではなくて、瞬時に起こる決定的な実存のあり方の転換、即ち、いわゆる「直覚知」であるということには、また別の傍証もある。それは、仏弟子たちの伝にしばしば見られる、瞬間的な解脱の達成(頓悟)の報告である。……(p.139)
 そして、ゴータマ・ブッダの侍者であったアーナンダが、一夜の身体への気づきの実践を行っても解脱には至らなかったのに、早暁横になろうと「頭が枕に達せず、足が地を離れない」あいだに、煩悩を離れて解脱した事例、シーハーという比丘尼は、出家してから7年間も欲情に悩まされて心の平静を得られなかったが、縄を首にかけて自殺しようとした瞬間に解脱した事例の二つの場合を紹介している。
 解脱・涅槃の経験とは、テーラワーダ仏教では、不生不滅である涅槃(nibbāna)という対象を、心が認識する経験であると捉えるが、現代日本では「涅槃の実体視」として根拠なく否定されている。しかし著者魚川祐司氏によれば、テーラワーダ仏教の涅槃解釈を支持する。
……まず一つは、『中論』のように涅槃と世間の区別を無効化する解釈は、成仏という目標を無限遠に先送りした上で、「物語の世界」における利他の実践を重視しようとする大乗仏教の枠組みにとっては都合のよいものだろうが、いま・この生において(現法に)渇愛の完全な滅尽であるところの解脱が決定的に達成されると断言したゴータマ・ブッダの教説とは、そぐわないところがあることである。……(p.145)
 そもそも涅槃とは生成消滅のない無為の風光である以上、分別の相は存在せず、「ある」とか「ない」とかいう判断の前提となる戯論が寂滅しているのである。それが「実体」であるかどうかなどと論じることに、意味がないということになる。「苦である」ということも、涅槃を覚知した聖者であってはじめて理解される真理なのである。
 解脱・煩悩の経験の内実は、言葉で語ることは不可能である。それが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうとだけ言えることである。
……本書の表題である「仏教思想のゼロポイント」とは、ここのことである。それは無相であり無為であるという意味で『ゼロ」であり、ゴータマ・ブッダがこの経験をしたことが仏教の「始点」になったという意味での「ゼロポイント」である。そして以後の仏教史はゴータマ・ブッダが証得したこの境地から、いかに・どの程度の「距離」をとるかという問題をめぐって展開していく。したがって、この「仏教思想のゼロポイント」を、経典が記す通りの「決定的で明白な実存の転換」として素直に捉え。その「性質」を理解しようとする試みが欠けていたら、大乗を含めた以降の仏教史全てについて、その正確な理解はおぼつかない。……(p.160)

紫陽花や身を持ち崩す庵の主   永井荷風


⦅写真は、東京台東区下町民家のアカンサスその2。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆