『仏教思想のゼロポイント』(新潮社)を読む(Ⅱ)

 第二章「仏教の基本構造—縁起と四諦」は、仏教の中心思想である「縁起」説について述べ、悟りに至る方法としての「四諦」の内容を「初転法輪(最初の説法)」からの引用で簡明に解説している。
……そして、全ては縁生であるという性質は、外的な現象であれ内的な現象であれ変わらないから、「外界」の物質や出来事のみならず、私たちの「内面」に感じられる意識現象に関しても、それらはあくまでも原因や条件によって生じている、縁起の法則の支配下にあるものだということになる。先ほど述べたように、私たちの心には、「自分で浮かばせた」わけでもないのに、欲望などが「ふと浮かんでくる」が、そのような「思い」が「ふと浮かんでくる」にも、それなりの因縁は存在しているということだ。……(p.56)
「後に結果をもたらすはたらき」を業とすれば、「生死輪廻の迷いの中で、無始以来の過去より積み重ねられてきた業」に条件づけられ、「行動と認知のパターン」言わば「癖」がついている。衆生のこの「癖」とは、「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」もので、そうした癖による心のはたらきは、汚れたものとして「煩悩」と呼ばれ、煩悩で心の汚れた状態のことが、「有漏(うろ)」と呼ばれるのである。
 次のところは、格別目新しいことを述べてはいない。まさに中心の思想である。
……衆生が業と煩悩という条件に束縛されて、苦なる輪廻的な生存状態に陥っているのも、そこから渇愛という原因を滅尽することで、解脱に至ることができるのも、全て「ものごとは原因・条件があって生起する」という、縁起の法則に基づいた話である。「縁起を見る者は法を見る」と言われるほどに、仏教においてこの説が重視されているのはそれゆえだ。……(p.61)
 第三章『「脱善悪」の倫理—仏教における善と悪』は、善悪および人格の形成など世俗的な次元での倫理に関する問題を扱っている。瞑想によって人格がよくなるなどというのは、「解脱・涅槃に導く瞑想に対する基本的な誤解」であるとしている。善悪に関しては、初期経典では十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)が挙げられ、十善とはこれらの否定形である。ただし善/悪を判定する一般原則ではない。行為者に楽の結果をもたらすものが善であり、苦の結果をもたらすものが悪であるとの「功利主義」の倫理観に属しているといえる。ゴータマ・ブッダの仏教は、その究極的目標は「善も悪も捨て去った」先に到達される解脱・涅槃である。これは「善とも悪とも関わりのない、そのような物語からは離れた境地」を究極的には目指すということであり、『修行者が日常の行為において「善」を志向することを妨げはしない』。
……このような仏教の倫理に関する態度については、様々な意見があり得るであろうが、少なくともゴータマ・ブッダの仏教が第一に目標としていたところは「無善無悪」の涅槃である以上、「それ以外のことについては社会で軋轢を起こさぬ程度に適当に」という姿勢でいることに、宗教として大きな問題はないだろうと私は思う。仏教が独自の固定的な倫理基準を有して社会を厳しく批判するような勢力であれば、無産者の集団が人々の行為に依存した援助に基づいて、「善も悪も捨て去った」境地を追求することを許されるという、改めて考えれば奇跡的な制度は、二千五百年間も維持されなかっただろうと考えるからである。……(pp.76~77)
 第四章『「ある」とも「ない」とも言わないままに—「無我」と輪廻』は、「無我」の意味について、およびそのことと関連してゴータマ・ブッダの輪廻観について経典に即した考察を展開している。ここまでで、ここがいちばん学ぶところ多かった。
「無我」とは、ゴータマ・ブッダにあっては、「常一主宰」の「実体我」の否定である。こちらもかつて学んだ中村元説では、ゴータマ・ブッダは同時代のウパニシャッド的な我は否定したが、「真実の自己」としての我の存在は認めていたとする「非我説」をとる。しかし「非我説」も支持できない。
……基本的なことだが、仏教において「常見」と「断見」は、ともに明確な否定の対象である。常見というのは、世界は常住不滅のものであり、人は死んでも実体的な我が永久に存在し続けるという見解のこと。そして断見というのは、世界や自己の断滅を主張するもので、人は死んだら無になるという見解のことである。この両者は仏教における明確な邪見(誤った考え方)だが、我が実体的な意味で存在するなら常見が導かれ、我があらゆる意味で存在しないなら断見が導かれる以上、断常の二見が否定されるということが示すのは、仏教においては絶対的(実体的)な意味での無我も有我も、ともに否定されるということだ。……(p.84)
「個体性」を有している「経験我」は存在するが、それは原因・条件によって生成消滅する(縁生の)感官からの情報によって時々刻々と変化・流動している。『したがって、その中のどこを探しても、固定的・実体的な、常一主宰のアートマンは見出だせない。だからその経験我は、「我ではない」のである』。
 輪廻観に関して、和辻哲郎以来現代においても、ゴータマ・ブッダは輪廻を説いていないという主張が存在するが、これは誤りである。和辻哲郎の輪廻観を批判した木村泰賢の「蚕の変化」に喩えた説明を紹介している。
……そのように、蚕の幼虫も、まずは幼虫として成長(変化)し、ある時期が来れば蛹へと変態(飛躍)して、それがまた蛾へと姿を変える。それは「同一蟲」の変化であるも言えるが、成長と変態を経て全く異なる姿へと変わっている以上、別物になったとも言えるであろう。要するにそれは、「同ともいえず、異ともいえず、ただ変化であるといい得るのみ」である。
 輪廻というのもそれと同じことで、原因や条件によって引き起こされつづけている(縁生の)認知のまとまり、継起する作用の連続が、衆生の死後にはその作用の結果を引き継いで、また新しい認知のまとまりを作る。転生というのは、それだけのことである。そこに固定的な実体我が介在する必要は全くない。……(p.95) 

 しかし一般人の仏教の実践あるいは、「思想や実践を教える立場」において、輪廻思想に触れないことも場合によっては許されるだろうとしている。なるほど「あったかいんだからぁ♪」。