Amazonから、先日亡くなった車谷長吉(ちょうきつ)の作品集『鹽壷の匙』(新潮文庫)が届いた。さっそく表題作の「鹽壷の匙」を読む。語り手の「私」の幼少年時代を取り巻く、曾祖父、祖父、祖母、母、母の兄弟とくに叔父の宏之らとの人間関係を「私」の「悪意」によって物語った作品。読書家でヴァイオリンを弾き、名門県立姫路西高校を卒業した叔父宏之が大阪(一度目)と東京(二度目)の大学受験挑戦に失敗挫折し、離島の中学校の代用教員の職すら追われて小学校で教えることになり、納屋の梁に荒縄をかけて自殺してしまうまでを「私」に語らせている。
……私が子供のころ吉田の家で呼吸した底深い沈黙。無論、そのうめきにも似た無気味な沈黙を呼吸したのは私だけではないだろうが、併しそれについて語る者は誰もいなかった。語ることはあばき出すことだ。それは同時に、自身が存在の根拠とするものを脅かすことでもある。「虚。」が「実。」を犯すのである。だが、人間には本来存在の根拠などありはしない。語ることは、実はそれがないことを語ってしまうことだ。だから語ることは恐れられ、忌まれて来た。併し春の日永の午後などに、不意に、言葉にはならない言葉の生魑魅(いきすだま)のようなものが、家の中のどこかに息をしているのを感じることがあった。……(p.266)
想像を絶する貧困のなかで育ち、金銭の力のみ信じて生き抜いてきた曾祖父勇吉にはじまる一家の物語には、「そうはいっても人間は」などと感傷や善意に通じる回路は用意されていない。ひたすら語り手の「悪意」によって紡がれているのである。ただ、虫や鳥や、植物が舞台を一瞬にして通り過ぎる登場人物のように現われ詩情を醸し出している。「葭(よし)の繁みで捕らえて来たばかりの」翡翠(かわせみ)、「朝になると、蚊帳のすそに死んでいた」蛍、宏之の死んでいた「納戸からその座敷の方を見ると、燃え立つように咲いていた」平戸つつじなど、吉本隆明氏が文庫解説で「この作家にとっては近親のなかには動物も植物も生きものとして含まれる」とし、『かなり本気になった「私」の根性の悪さを無表情に暴露しているのだが、生きものに対する「私」の行為は無表情を裏切っている』と指摘している。なるほど。
なお標題の「鹽壷の匙」は、次の描写で、近親の人間関係に逃れようもなく押しつぶされてしまった宏之の生涯を暗示していることがわかる。あるいはさらに、何が彼を自殺に至らせたのか、彼にとっての鹽とは何であったのかを問うている。
……数日後納屋の土間で宏之叔父が鹽壷(しおつぼ)を打ち摧(くだ)いているのを見た。大きさが瓜ほどのその土壷は、勇吉やゆきゑが「帳面をする」部屋に、ずっと昔からおいてあった。壷の中に、鹽が銀の匙を喰い込んで石になり、匙の柄が青黴を吹いて、蓋の凹みから出ていた。宏之叔父は執拗に壷を打ち摧(くだ)いていた。が、壷がかけらだらけになっても、鹽の固まりは匙を噛んだままだった。……(p.287)
※生魑魅(いきすだま):生きている人の怨霊(おんりよう)。いきりょう。
⦅写真は、東京台東区下町に咲く昼顔。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆