『コーラン(クルーアン)』の新訳

 池内恵東大准教授のFacebook5/15記事によれば、今度中田孝訳(監修)の『コーラン』が出て、それについて東大名誉教授の本村凌二氏が『週刊エコノミスト』今週号の書評欄で「これまで信仰者の手で翻訳されたことはない。その意味で信仰者として翻訳と注釈につとめた中田孝が」云々とあるが、これは間違いとして糾している。そう思いこんだ理由が、「毎日新聞」3/29号掲載の本村氏、橋爪大三郎氏、岡真理氏らによる鼎談の書評で、橋爪氏が「イスラム教の場合、これまでコーランは信仰の立場で翻訳されたものがなかった」ことを根拠に中田孝訳(監修)のコーランを評価したところにあるらしいとしている。イスラーム教信仰者による『コーラン』訳としては、すでに日本ムスリム協会イスラーム教信者団体)刊行の『聖クルーアン』があるのだ。
……日本ムスリム協会訳のコーランの書籍版を見れば、もともとの訳者が三田了一であることは明記されている。三田了一は日本ムスリム協会の会長も務めている。信仰者の訳がなかったなどというのは、基本的事実を知らないとしか言いようがない議論だ。
もちろん中田孝訳の解説の中にも、これまでの翻訳として日本ムスリム協会訳が挙げられている。中田さんやその他の訳者も、三田了一・日本ムスリム協会版が「信仰者の訳ではない」などというとんでもないことは、解説でも一切書いていない。信仰者の中での立場の違いはあるだろう。そこをもし議論できれば良い書評となっただろう。しかし、本村さん、橋爪さんの書きっぷりを見ると、なにが論点で何が対立点なのか、まるっきり見当がつかないのだろう。
結局、「初めての信仰者による訳」という、中田さんすら主張していない説を橋爪さんが根拠なく断言し、本村さんがその場で認めただけでなくよそでも拡散している形だ。
あやふやな論者があやふやなことを言ったら、きちっとした学者が文献を踏まえて「それは違いますよ」「中田孝訳の特徴はこういうところですよ」と言ってあげなければならないと思う。少なくともイスラム教については、本村さんはそういうことをできないようである。
「中田孝訳」のコーランというものはそれ自体で価値があるものだと思うが、なぜ、どのような意味で価値があるのかを理解せずに、なにやらメディア・媒体企業の「空気」を読んで褒める人たちが出てくるのは困ったものだ。しかもそれが一応(一昔前の基準とはいえ)アカデミックな訓練を受けたはずの人たちであったりするので、なぜ基本的な文献探索の作業を行ってからものを言わないのか、訝しく思う。……
 学者は学者らしく地道にコツコツ(NHK朝ドラのヒロインのことばだ!)、みずからの専門領域を掘り下げていけばよいのである。オピニオンリーダーなどと周囲から持ち上げられたときは、危ういことと自戒するべきであろう。


⦅写真は、東京台東区下町民家のコリウス 。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆