「一般的な大問題」


福田恒存作の戯曲『武蔵野夫人』(河出書房・市民文庫・昭和26年刊)を入手。大岡昇平の原作の小説はむろんかつて読んでいるが、描かれた登場人物の会話や所作の細かいところなどは、記憶があいまいである。国文学の研究者であれば、もう一度小説にあたって、戯曲作品との比較をするべきであろうが、そういう立場ではないので初めて接する戯曲作品としてノートしておきたい。

 心理小説として評価されている原作に対して、「僕の戯曲は勧善懲悪の道徳劇であります」と著者自らが述べているように、この作品は、不倫の恋愛をめぐる立場の対立が鮮明にとりあげられたドラマとなっている。登場人物たちが不幸に終わる結末なので、観客に期待をもたせて「なんだ、やっぱりそうなってしまうのか」と思わせてしまう「通俗劇」の仕立てであっても、その対話の台詞は浅くない。むしろ「通俗劇」の仕立てを借りて、敗戦後の日本の行く末を暗示しようとしたのかも知れない。いまにして、考えさせるものをもっているのはさすがである。
 復員学生の宮地勉と、互いに惹かれあう秋山夫人道子とが、第三幕、嵐に会い村山貯水池畔のホテルで一夜を過ごすことになってしまう場での、二人の対話はなかなか迫力がある。愛することの「自由」を主張する宮地勉に対し、道子は「幸福は道徳からしか生まれないわ」と言って、彼の愛を受け入れない。

道子 ほんとはあたし……、道徳より上のものがあると思ってゐるの。
勉 なんです、それは?
道子 誓ひよ。
勉 誓ひ?
道子 もしあたしたちの愛が永遠に変わらないことさへ誓へれば……、そしてその誓ひをいつまでも守ることができれば、世間の道徳のほうで改まってくるのよ。そしたらあたしたち、自分を傷つけないでいっしょになれる……、きっとさういふときがくるわ。
勉 いつまで待てばいいんだらう……。

 この「誓い」は、当時のイデオロギーとまったく無縁である。第二幕で、共産党員の貝塚正夫を含めて、「主義」なるものを、秋山と不倫の関係に陥る大野富子に批評させている。

富子 貝塚さんは革命の材料としてしかソヴィエトを見ないし、大野はあんたの姦通論に自分の放蕩の合理化しか考へないで、おまけに自分の女房の貞淑をなんとかつなぎとめる理屈をほしがってゐるし、みんな一般的な大問題を論じながら、けっきょくは自分の気持ちの正当化しか考へてゐないんだわ。 
 道子に愛を拒まれた勉のアパートを訪問した、富子の妹成子こそ、その後の若い女性を象徴していよう。
成子 あんまりばかにしないでよう、あたしパンスケぢゃないわよ。(2006年6/5記)

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