女優について—『渡辺温全集(文庫)』刊行に寄せて

 この夏の終わりに、『渡辺温全集:アンドロギュヌスの裔(ちすじ)』(創元推理文庫)が刊行された。まだ入手していないが、2年前の正月発行『花粉期:歳旦譜』に掲載された「女優について」を、この作家に触れたエッセイなので、ここに再録しておきたい。

渡辺温の短篇「アンドロギュヌスの裔」は、主人公の騎兵連隊下士官の青年が、活動写真の「悲劇女優」を恋慕し、その住居が眺められる池畔のベンチで毎休日の夕方を過ごし、ついにはその女優に奉公していると詐称する、ひとりの娼婦の巧みな誘惑に落ちて、「青春との別れ」を体験させられる話で、好きな小説だ。主人公が見上げる館からチャイコフスキーピアノ曲が聞こえ、一時間も、じっとそのまま動かずにいると、「そして薄いレースの窓帷(カーテン)を時々優雅な人影が横切った」。
 たしかに女優という存在は、近寄り難いものであるが、憧憬し妄想のなかで独占したいものであろう。そこまで狂的に憧れないとしても、女性を含めて、その作品の役柄を重ねて特定の女優に魅入られてしまう場合はめずらしくはあるまい。
 私が少年時代を過ごしたのは、浅草の映画館街に歩いて十分ほどのところであったので、父のお供でよく映画を観に行ったものだ。わが父は、邦画は嫌いでまったく興味がなく、観るのは当時二つあったロードショー館での西部劇を中心とした洋画ばかりであった。だから、小・中学生のころすでに外国のスター女優の名前を少なからず諳んじることができたが、男優はいてもとくに贔屓の女優はいなかった。その後仏・伊ほかヨーロッパ映画のお気に入りの女優が多数できたが、名前を列挙するほどのことではない。そのひとりに、「女優マルキーズ」で、十七世紀フランスの舞台女優を演じたソフィー・マルソーがいる。じつは文才豊かな彼女は、みずからの小説で主人公の女優に託して書いている。
「その幻の世界では、なにを話しても、文字遊びのようにどんどん点数が加算され、世界が危険なまでに活性化していく。そこでは〈人間〉と〈英雄〉が同一視され、誰もが〈私〉と〈彼〉のあいだをふらふらと行き来する。この世界から逃れるには、お酒で酩酊するか、戦士や狂人になるか、魔法使いになって陶酔しながら炭の上を歩き、踊りながら奇跡を願うしかない。この仮想世界では、人間の精神は、恐ろしいほどに陽気で、とらえどころがない。/人は幻の世界に入りこむと、魅力的な知性をもった、絶対になびくことのない悪魔に心を奪われ、不可能を追いかけてしまう。しかし、それで得ることができるのは、指に引っかかった数本の金髪と、肌色のガーゼのようにもろい蠅の脚ぐらい。」(『うそをつく女』金子ゆき子訳・草思社
 多くの観客を感動させるすべての女優は完璧なほどの「時分の花」をもって登場するが、いつしか容色も衰えるときが来る。そのときも内なる「花」を絶やさず、虚無を孕んだ幻を演じつづけられれば名女優といえるだろう。
 「OBSESSION」(ブライアン・デ・パルマ監督)で、三十代半ばの歳で二十歳の女子学生を切ないほど可憐に演じたジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドには脱帽したが、誰であろうと肉体上の限界があろう。
 イタリアを代表する「国民的女優」アンナ・マニャーニも、ジャン・ルノワール監督の「黄金の馬車」で、十八世紀スペイン植民地での旅芸人一座の舞台女優を演じていて、女優が女優になる面白さを堪能させられ、ロベルト・ロッセリーニ監督の「無防備都市」でナチに惨殺される女と、そのたくましさと哀愁の表情から別人でもないところが、さらに感動を誘う。
 さて作家渡辺温の恋人だったといわれる薄命の女優、及川道子の作品をぜひDVDで観たいのだが、いまだ果たせていない。

アンドロギュノスの裔 (渡辺温全集) (創元推理文庫)

アンドロギュノスの裔 (渡辺温全集) (創元推理文庫)