歌舞伎『一條大蔵譚(ものがたり)曲舞・奥殿』(3/27 国立劇場)観劇

 3/27(月)国立劇場にて、文耕堂・長谷川千四作《鬼一法眼三略巻》第4段『一條大蔵譚』序幕&2幕目そして、第5段『五条橋』1幕を観て来た。劇場前は桜がまだ残っていて、日中は雨も降らず、絶好の芝居見物の日となった。中央2列目通路側端隣の席なので個人的にはベストの席での鑑賞だった。
 平治の乱(1159年)の勝利によって平清盛の権勢が強まり、源氏は敗者となり義朝は逃走中部下に討たれた。未亡人となった常盤御前は、子供たちを守るため清盛の愛妾となり、そして平治の乱源義朝と同盟関係にあった藤原信頼と血脈的に繋がりのあった一條長成に(幼少の牛若を伴って)再嫁した(1162年ころ)のであった。因みに信頼の姪が平泉の藤原秀衡の妻であったことが、後の義経の奥州行きに繋がってくるわけである。
 清盛の側近播磨大掾(だいじょう)広盛は、一條家の家老八剣勘解由(はっけんかげゆ)をスパイとして操り長成と常盤御前の動向を探らせていた。八剣勘解由は隙をみて大蔵卿を亡き者にしようと企んでいた。広盛が一條大蔵卿の館を訪れ探るが、長成は(源氏再興の本心を隠し)作り阿呆となって狂言の稽古に夢中となっている。この序幕の前場で、女狂言師お京と八剣勘解由妻鳴瀬が狂言入間川」の稽古話をしていた。狂言入間川」の記録されている最初の上演が1464年、最も古い狂言の一つではあっても、源平の時代には遡れない。フィクションである。
鳴瀬:お京殿、今日はご苦労にござりまする。
お京:そのお言葉痛み入りまする。いかに狂言になればとて、誰あろう八剣勘解由様の奥方鳴瀬様ともあろうお方を、私風情が太郎冠者に使うと思えば、どうやら気の毒、これがほんの逆事、取りも直さず入間川、お許しなされてくださりませ。
鳴瀬:これは改まった御挨拶、わしのような鈍な者がお相手になり間に合わすも、こなたのおかげ。お師匠様に、そう言わるるがやっぱり入間詞(ことば)、お稽古させて下さらいで、狂言も覚えもせず、御殿の勤めもいたさぬが、ご褒美にもあづからいで、おほめもござりませぬ。
お京:そうおっしゃってくださらねば、かえって迷惑にも存じませぬ。
両人:オホホホホホ。        (上演台本より)
✽入間言葉:逆流していたという入間川伝説から、本来の意味と正反対の言い方=逆さ言葉のことを「入間言葉」と呼び、この「入間言葉」から生じる可笑しさを描いた狂言が、「入間川」である。昔(1979年9/6)渋谷区松濤の観世能楽堂にて、能の「班女」とともに観ている。大名(シテ)=茂山忠三郎、太郎冠者(アド)=善竹十郎、入間何某(アド)=善竹圭五郎であった。なお寿司の「タネ」を「ネタ」とするような倒語もこの入間言葉の流れらしい。
 さて序幕の見せ場は、長成の作り阿保のままでの、狂言ではなく曲舞である。長成を亡き者にしようと焦る広盛と八剣勘解由を舞いながら手玉にとるのである。なお中川俊宏武蔵野音楽大学教授の筋書記載の解説によれば、「曲舞は、静御前などで知られる白拍子の芸を母胎に鎌倉時代末期に生まれた芸能です。鼓に合わせて扇を持って舞ったものと推測されていますが、南北朝時代から室町時代初めにかけて流行し、やがて観阿弥によって能にそのエッセンスが取り入れられたとされます」とのことで、やはり時代的に無理があるらしいが物語を楽しむにはいいだろう。
 そして2幕目の「大蔵卿館奥殿の場」で事の真相が明かされる。楊弓に明け暮れる常盤御前もじつは隠した的は清盛入道であり、作り阿呆を演じていた大蔵卿も源氏再興の本心を隠していたのであった。清盛に通じていた八剣勘解由は成敗され、女狂言師お京はかつて源義朝に仕えていた吉岡鬼次郎の女房であったのだ。常盤御前の真意を知った鬼次郎夫婦は、大蔵卿から源氏代々に伝わる宝剣友切丸を授かり、源氏再興の真意を牛若に伝えるため館を去るのであった。作り阿保と厳しい表情の大蔵卿(中村又五郎)の入れ替わりこそ、この2幕の見どころだろう。感動。だから曲舞の場をカットする上演は物足りないと言える。
 第5段目の『五條橋』1幕、牛若丸と武蔵坊弁慶の主従関係成立の契機となった、五條橋での〈格闘〉の場である。女狂言師(じつは鬼次郎女房)お京でふっくらとした色気を見せた中村種之助が、アンドロギュノス的な美少年牛若丸を演じていて、魅せられた。