『梶原平三誉石切(石切梶原)』(1962年1月 歌舞伎座)の舞台を思い起こす

 梶原景時がまだ平家方の武将であったころ、石橋山の戦いで頼朝軍を破った後の物語、『梶原平三誉石切(石切梶原)』を、少年時代の1962年1月歌舞伎座夜の部公演で『椀屋久兵衛』などとともに観ている。このころいつも、歌舞伎は観ない父に代わって母のお伴の観劇であった。(その代わり父のお伴で浅草の洋画ロードショーを観ていた)。この時の梶原平三景時は十七代目中村勘三郎、大庭三郎景親が十四代守田勘弥であったが、さて、青貝師(螺鈿細工の職人)六郎太夫の娘梢が四代目中村時蔵30代、「時分の花」は超え魅力的で母も褒めていた。ところが翌日のニュースで驚いた。睡眠薬自殺か事故で亡くなったとのこと、このことで、この日の観劇は忘れられない出来事となったのである。この公演の筋書きは残念ながら手元にない。なおこの時の公演では、梶原平三景時は「かじわらへいざかげとき」と、「へいぞう」ではなく「へいざ」としていた。

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